印西インターネット教会

復活祭の深い意味について読む説教

「もう泣かないで」          ヨハネ20:1-18

イザヤ書には、主なる神が全ての顔から涙をぬぐい、民の恥を地上から消して下さる、つまり罪の汚れを清めて下さるということが語られています。思えば、人生には悲しいことが少なくないものです。生別があり死別があり、喪失があります。今までいた人がいなくなり、大切にしていた存在がなくなることは、特にその対象が心の支えになっていればいるほど辛く悲しいものです。なかには悲しくないと豪語する人もいるとは思いますが、そんな強い人でも、強いがゆえに、自分の能力や財産、あるいは社会的地位が失われた時にはひどく嘆き悲しむのではないでしょうか。誰にでも何かしら、心の支えになっているものがあるはずです。それはわが子であったり、親であったり、自分自身であったりするわけです。ところが、神様が涙を消して下さるということは、この世の支え以上の大きな支えが現れるということではないでしょうか。それは復活のことを述べているのだと思えます。これを学びたいものですね。

考えてみると、キリスト教用語はずいぶん日本語の中に入ってきています。その最たるものは愛です。キリシタンの時代には愛という言葉は用いられませんでした。直江兼続の兜にあった愛の文字は、愛染明王の愛であるという説があります。それは仏教的には煩悩の印である愛、すなわち愛着、あるいは執着という意味です。敵をせん滅するという執着心のあらわれでした。ですから、愛というのはどちらかというと否定的な意味でした。のちになって明治時代くらいになると西洋文化の流入とともに、愛という言葉がポジティブな意味で用いられるようになったようです。たとえば復活という言葉も、復活折衝などという熟語になっています。ただその意味は、「再びおこなう」ということに過ぎません。しかし、古い時代が終わり、新しくされたということが、復活の本来の意味です。つまり、涙なしには生きることができない人生は、古い形の人生の典型であり、そこに罪のしばりがある人生なのです。しかし、神はそれを終わらせ、死という離別、死という破壊、死という無力、これらすべてを終わらせて下さるのが復活です。つまり、先に述べたイザヤ書は復活による新しい時代が必ず来ることを預言したのです。そしてその預言されたことがイエス様の復活において起こったのです。

復活の時の記録は、福音書によって若干違っています。ただ共通するのは、空になった墓です。イエス様の墓に行ったマグダラのマリヤは、墓穴となっていた洞窟の前にふたとして置いてあった石が取りのけてあるのをみました。ちなみに、マグダラとは地名で、ガリラヤ湖北西部の町です。彼女はイエス様に7つの悪霊を追い出してらった人です。このマリヤが、空の墓のことをペトロに知らせると、ペトロは墓に行き中に入ってみました。イエス様の遺体はもうそこにはなく、布だけが残っていました。この記事でわかるのは、弟子たちが最初に見たのは単に空になった墓だけでした。しかし、それは、どう考えても不可解なことでした。墓には大きな石で蓋がされて封印してあったし、警備の番兵もいたからです。そして、普通のユダヤ人は安息日の掟を固く守っていましたので、その日に家から出て安息日の規則を破るという事は考えられなかったからです。どんなにイエス様のことを思っても、遺体を安息日に動かすということは不可能だったのです。

安息日が終わってから墓に行ったマリヤの場合には、深い悲しみがありました。イエス様が十字架にかけられて死んでしまったことは、彼女の心の支えがなくなってしまったことです。おそらくイエス様に出会う前の彼女の生活は、悲しみの連続だったことでしょう。悪霊にとりつかれていたという事は、大きな苦しみを伴うものです。異常な行動をするだけではなく、常に猜疑心にとりつかれていたでしょう。また、人を幸せにすることではなく、自分がなにか得になることばかりを望むことや、他人の不幸や失敗を喜ぶことなども、ある面では、悪霊憑依のしるしではないでしょうか。ドイツの文豪ゲーテも、「自分の人生に本当に幸せだった日々は20日に満たない」と言っていたそうです。信仰という支えなしに、幸せな日々は少ないものです。イエス様に出会う前のマグダラのマリヤはきっと苦しみの毎日を送っていたことでしょう。そこで、わたしたちはどうでしょうか。もし毎日に喜びがなく、苦しみの連続だったとしたら、それはある種の悪霊憑依であり、愛着や執着が自分自身の心を苦しめているのではないでしょうか。古い時代がまだ終わらず、復活の時がまだ来ていないと言えるでしょう。ただ、心配は必要ありません。イエス様の弟子たちでさえ、復活の体験までは古い時代の人たちだったのです。

マリヤは、しかし、悲しみのどん底で復活されたイエス様に出会いました。神においては悲しみも決してマイナス要因だけではありません。木枯らしが荒れ狂う真冬に、春の木の芽がすでに準備されているように、悲しみの蕾の中に、人知では計り知れない喜びが隠されているのです。ただ見えないだけなのです。復活とは、見えないもの、あるいは計測できないものが、聖霊の働きによって、見えるものとなることだとも言えます。幸せが見えないからこそ、悲しみ涙に暮れるのです。しかし、以前は見えなかったが、今は見える、と言う時がきます。これが聖書の教える信仰です。確かに、外見的に幸せな日々は、ゲーテが言ったように人生に20日くらいしかないかもしれません。しかし、涙にくれた日々の中に、優しい友の励ましがありはしなかったでしょうか。痛みを除いてくれた医者がいなかったでしょうか。神が、闇に沈む心を上に向け、空に美しい虹を見せてくれたことはなかったでしょうか。隠されているけれども、それは存在しないことではないのです。

見えないものを信じる信仰を与えられたのが復活の大きな意義です。「キリストが復活しなかったのなら、宣教は無駄、信仰も無駄で、空しく、クリスチャンはすべての人の中で最もみじめな人々」(第一コリント15:19)だと書いてあります。イエス様は「見ないで信じる者は幸いだ」(ヨハネ20:29)とも教えました。ですから、復活とは、まさに見えるものや五感をとおして感じるものを超越した第六感の世界なのです。それは本当に嬉しい知らせです。マリヤのように空っぽの墓の前に立って泣いているようなときでも、神はその涙をぬぐいさり喜びに変えてくださるのです。

こんな例話があります。外国のある町に自分の不幸を嘆く女性が住んでいました。その女性は最近、頼りにしていた親を失い、続けて主人を失い、最後に頼りにしていた一人息子を失ったそうです。彼女は毎日家に引きこもって泣き暮らしていました。そこに、信仰深い人が訪ねてきました。女性は言いました。「わたしには、親も夫も、子供もいない。わたしはどうしたら良いのだろう。」信仰深い人は言いました。「働きなさい。」周囲の人は驚きました。こんなに悲しんでいる人を慰めもせず、働けと言うとは、なんて残酷な心の冷たい人だろう。しかし、信仰深い人はもう一度「働きなさい」と言い、「死んでいるのは、親でも夫でも、息子でもなく、あなた自身だ。泣くのをやめて、働きなさい。そして生きた人になりなさい」、そのように付け加えたそうです。この助言は、この世の不条理に苦しんでいる人々への復活の言葉でもあります。

復活されたイエス様は、悲しみと涙に暮れるマグダラのマリヤに「なぜ泣いているのか」と尋ねました。そして、姿を見えるようにしました。それはつまり、マグダラのマリヤ自身が死んでいたからです。そして彼女は死の世界、つまり喜びのない世界から、神の世界、愛と光の世界に移ったことなのです。死んでいるのはあなたなのだ。その呼びかけは、マグダラのマリヤだけでなく、わたしたちにも向けられています。そして、神様はわたしたちの心を方向転換させます。もう泣かないでいい。あなたは、わたしの十字架の贖いによって、死の力である罪を解かれ、今は生きるもの、神の真理を体験するものとなっているからだ。あなたは神の絶対愛で無条件で救われている。それこそが、わたしたちにも語られている福音です。

イエス様の復活はそれを証明しました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)涙と悲しみの去るときはすでに来ています。

モバイルバージョンを終了