使徒言行録16章19節–40節 文責 中川俊介
前回は、悪霊に憑依された女に対するパウロの処置が書かれていました。前にも述べましたが、イエス様の伝道命令には、人々を「派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせる」(マルコ3:14以下参照)ことが含まれていました。パウロはまさにそれを行ったのです。
神の働きには、リアクションや反発が起ります。この世の霊は、御言葉が宣教され、病が癒されることを好まないからです。「伝道に限らず、何事でも調子の良い時、必ずその正反対のことが起るものであります。」[1] この女の場合、悪霊が彼女から出ていくと、もはや以前の予知能力は消えてしまい、普通の人に戻ったわけです。それによって、この女を奴隷として使っていた主人たちは収入源も出て行ったと、同じ動詞を使ってユーモアを交えて書かれています。そして彼らは怒り、使徒たちに敵対しました。彼らにとっては女が霊に捉えられていたほうが有利だったからです。「生まれながら罪人である人間は、結局のところ自分のことしか考えず、自分の利益のためなら、他人を傷つけかねません。」[2] 社会の問題も背景には利害が関係しています。この利害の衝突を越えるのは福音しかありません。そこで、彼らは、19節にあるようにパウロとシラスを捕えて広場に連れていきました。「テモテやルカなど、ほかの同伴者たちは、使徒の下僕と見られたため、迫害を免れたのである。」[3] 古代社会では、人々が集まる城門や広場に裁きの場がありました。「考古学者によってこの広場は発掘されており、商業地域でもあったことがわかっている。」[4] 広場で、彼らはパウロとシラスを役人に引き渡しました。通常、ローマの高官は2名でしたので複数形になっています。「フィリピはローマの植民地都市であったので、ローマと同様に、市の行政は二名の執政官に委ねられていた。」[5] 一方で、人々は警察でもないのに、権力をふるっていたことがわかります。彼らの訴状というか、提起した問題点は3つです。第一に、彼らはユダヤ人であること。勿論、それだけでは罪になりませんが、ローマ時代にも自分たちの信念を変えないユダヤ人は社会的な差別を受けていたことが分かります。次の問題は、町の秩序の混乱です。自分たちの商売が妨害されたとは、なかなか言いにくいので、それを町という大きなスケールに拡大し、これは皆さん全員の安心と秩序の問題ですよ、と訴えたのです。「彼らの感情に訴える告発によって人々が扇動されたのは疑いもない。」[6] 本当は、自分の利益が失われただけなのに、それをあたかも市民全体の損失であるかのように言い換える方法は、まさに悪魔のやり方です。日本ではある政党が、選挙に際して、「日本を取り戻す」というチャッチコピーを出しました。それは、自分たちの政党に関するものだけだったのですが、あたかも日本国民全員が日本を失っているかのような印象を狙ったものでした。こうしたすり替えは、社会のどんな場面で起こるでしょうか。皆で考えてみましょう。
さて、彼らが訴えた第三の問題点は、ローマ帝国市民には容認できない風習を宣伝しているという事です。これを聞いて、反論する市民はいなかったでしょう。誰でも、自分たちの既得権益を守ろうとします。既得権益は英語では、ヴェステッド・インタレストと言い、身にまとった利益という意味です。イエス様がそれを捨てた方であると考えると、イエス様はまさに神の人であったことが実感できます。
22節では広場に集まった群衆の様子が描かれています。奴隷の持ち主たちの巧妙な訴えによって、群衆は扇動されました。群衆はパウロとシラスが自分たちの共同体の脅威であるかのように思い込みました。現代日本の外国人に対する排他的なヘイトスピーチ(憎悪表現)と同じです。歴史は繰り返していると言えます。この群衆の動きに押されて、市の高官は審議もせずに処罰を決めました。パウロとシラスは裸にされて、鞭打ちの刑となったのです。「鞭で打たれたことが三度」(第二コリント11:25)と書かれた部分です。しかし、この刑の後で二人は23節に書いてあるように、投獄されました。厳重な警備も置かれたという事は、「超自然的な力をしめしたそのような者たちは、特に注意深く監視されなければならない」[7]、と考えられたからでしょう。24節には、その証拠に、二人が一番奥の牢に入れられ、足枷(英語ではストックス、ストッキング「の語源)をはめられ、身動きできない状態だったことが書いてあります。古代教父は「心が天にある時に足枷の痛みは感じない」と書いています。
不思議なことに、25節にはパウロとシラスが真夜中に讃美歌を歌って祈っていたとあります。「福音が人を造り変えるとき、人は何者をも恐れぬ人に変えられます。これが福音の力なのです。」[8] それにしても、体は鞭打ちの刑で傷だらけであり、足枷で身動きもままならない状態で、なおかつ感謝の祈りをささげたという事は、彼らの信仰が、世の中や、悪魔の妨害に屈する事のない純粋なものだったことがわかります。また、迫害の中で命を絶たれたイエス様と同じ苦難の道を歩めることを感謝したものでしょう。わたしたちは、信仰を苦境の中でどのように生かすべきかを話し合ってみましょう。
牢獄には他の囚人たちもいました。静かな夜更けに賛美する声は、慰めに満ちていたのでしょうか。刑を受けて投獄されていた荒くれ者たちも、文句を言う事もなく静かに歌に耳を傾けていました。昼間の群衆の喧噪、鞭打ちを見る者たちの野蛮さ、それに怒声。こうした状況と、深夜の牢獄との対比は、まるで闇と光が逆転したかのようです。死の場所に光が溢れたのです。
すると、大地震がおこりました。「この大地震は、彼らの祈りに対する神の応答であり、超自然的なものであったようです。」[9] トルコの対岸にあるこの地域でも地震が多発したのでしょう。この記事は紀元50年ころのものですが、紀元62年にはイタリアのポンペイでも大地震が起こっています。このフィリピでの地震も大きなもので、頑丈に作られた牢獄も破損しました。26節には、牢の戸も開いてしまったとあります。この中には不合理な表現もあるが、「現代の読者は、この話が口伝で伝わった時に論理の整合性が中心事項ではなかったことを覚える必要がある。」[10] なかには、屋根が崩壊して亡くなった囚人もいたことでしょう。27節にはその時の看守の対応が書かれています。囚人が全部逃げてしまったと思った看守は自殺を試みようとしました。しかし、パウロとシラスはまだ残っていました。そして、自殺を思いとどまらせました。29節を見ると、看守は牢の外の建物にいたことが分かります。おそらく、地震のために灯火も消えて状況がつかめなかったのでしょう。看守があわてたのも理解できることです。その後の30節の記録を見ると、事態を悟った看守は、この出来事の背景に神の働きがあることを悟ったようです。「当時、囚人を逃亡させた者は、同罪でありました。死の一歩手前まできた者は、福音の一歩手前まできたのであります。」[11] 彼はパウロとシラスの前にひれ伏しています。看守は救いを求めました。パウロとシラスは異口同音に、キリストの福音を伝えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば家族も救われます。」これはなんと慰めに満ちた言葉でしょうか。一人の信仰者が生まれることによって、その恵みが家族全体に及ぶのです。32節を見ると、パウロは牢獄近くの看守の家で家族に福音を語っています。それまでの伝道が基本的にはユダヤ教の信者に対する者だったことを考えると、これは大きな転換点でした。33節の出来事も奇跡的です。大地震で困惑していた人々は、パウロの説教で冷静さを取り戻し、感謝のうちにパウロとシラスの傷を洗って手当てをしました。そして、家族全員が洗礼を受けてクリスチャンになったのです。古代教父は「彼らは使徒を鞭の傷から洗い、使徒は彼を罪から洗った」と述べています。これは参考にしなければなりません。条件が整ったから伝道が進むのではないのです。むしろ逆です。人間的な望みのないところの望みだから、神における望みなのです。この点を、皆で話し合ってみましょう。わたしたちの伝道とは何でしょうか。
その夜の事は終わり、朝となって、暗闇の中で把握できなかった状況が明らかになりました。35節にある高官から釈放命令がでました。もともとは無罪なのですから、当然と言えば当然ですが、この命令に看守は喜んだことでしょう。キリスト教に改宗したことは、自分たちが迫害を受けることを覚悟したという事です。死んでも良いと思ったことでしょう。その時に、人知を超えた神の助けが現れました。36節の「安心して行きなさい」という言葉は、まさに看守自身の心境をあらわした言葉でもありました。福音に触れ、福音を信じる者に与えられる平安です。パウロとシラスたちは既にそれを持っていました。だから伝えることができたのです。持っていない者は、他者に平安を分け与えることはできません。
ここで、知識人としてのパウロの姿が描写されています。イエス様の弟子の多くが、ガリラヤ出身の一般庶民だったことを考えると、パウロは当時の学者ガマリエル門下の最高教育を受けていたし、語学にも堪能であり、ローマ市民という特権を持っていたのです。看守の温かい言葉に感謝しつつも、パウロは謝罪もないこの処置に異議を申し立てました。37節に、その理路整然とした主張が記録されています。パウロが有罪であったか、無罪なのかはその後のフィリピでの伝道に大きな影響を与える事柄でした。前にも見たように、高官は奴隷の主人たちや群衆の騒動に押されて、処罰に走ったのです。けれども、自分たちが処罰した者たちが、ローマ市民権をもっていて、この処置はローマ帝国の権威に対する侮辱行為になるとは夢にも思っていなかったでしょう。また、パウロが身の安全だけを考えていた人なら、物事を穏便にすませ、牢獄から出る事だけを考えたでしょう。パウロの提案は、責任者である高官自らが牢獄に来て、その非を認め、釈放の手続きを取るべきだというのです。実に正論です。心の歪んだもの、あるいは悪霊に取りつかれている者は、自分で責任を取らず、第三者を利用して自分の思いを遂げようとします。その結果、流言飛語、噂話、誹謗中傷が絶えないのです。教会ではこれを注意深く警戒することが大切でしょう。判断を下した人は、本人がその責任を負うべきなのです。
38節に、役人がパウロの言葉を報告したとあります。高官はパウロたちがローマ帝国の市民権を持っていることを聞いて怖れました。高官は即座に決断し、自分自らが牢獄に出向いてきて、パウロとシラスに謝罪しました。そういう面では公平な心もあった訳です。自分の過失を隠ぺいするのではなく、公に認めたのです。もしこれがドラマなら、観客の気持ちが本当にすっきりする場面です。高官はもはや命令ではなく、二人に町を離れてくださいと頼みました。法律や理屈を知らない多くの人々がまだフィリピの町にはいるからです。パウロとシラスは出発する前に町の最初の改宗者であるリディアを訪問し、同じ信仰に立つ人々を励ましました。新たに入信した看守やその家族たちをも他の仲間に紹介したことでしょう。後にパウロはフィリピ教会への手紙でこう書いています。「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈ります。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」(フィリピ1:4以下)これは、ある面で伝道者と信徒との、福音で結ばれた喜びを表しているでしょう。わたしたちは、使徒言行録を学ぶことによって、リディアや看守たちが福音を信じた「最初の日」を追体験できました。わたしたちも福音に触れた「最初の日」をこれからも大切にしていきたいものです。
[1] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、238頁
[2] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、78頁
[3] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、218頁
[4] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、270頁
[5] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、335頁
[6] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、270頁
[7] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、271頁
[8] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、83頁
[9] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、95頁
[10] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、159頁
[11] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、240頁