印西インターネット教会

人生の新しいスタートについて読む説教

「暗い顔の二人」         ルカ24:13-35

先週はイースターのお祝いでした。ただ、先週でお祝いが終わってしまったのではありません。教会の日曜日の礼拝イースターの復活を記念しています。パウロもわたしたちが復活を信じているのでなければ、「すべての人のなかで最も惨めな者です」(第一コリント15:19)と言っています。どんなに健康でも、どんなに物を持っていても、復活の福音を信じていないならば「どうせ明日は死ぬ身ではないか」という死刑囚のような惨めな心になりやすい。エマオにむかっていたイエス様の弟子たちも惨めでした。彼らは挫折し落ち込んでいました。イエス様が十字架にかかって死んでしまった、という事実が彼らを悲しませていました。彼らはイエス様の素晴らしい教えや、奉仕、奇跡は覚えていたでしょう。しかし、まだ復活の福音を理解していなかったのです。

私たちも目の前の思い煩いの為に復活のキリストを見失うことがしばしばあるのではないでしょうか。暗い顔をしていたり、必要以上に落ち込んでいるときがあるのではないでしょうか。それは、人生の根本問題である復活ということを理解していないからです。毎週、日曜日に礼拝していても、基本的には罪の引き起こす悲しみや悩みに支配されている可能性もあるからです。

宇宙船を考えてみましょう。いくらロケットを打ち上げても、その力が重力に打ち勝たない限り必ず地面のほうに引っ張られて落ちてきます。罪によって暗くなる人生も同じです。この人生が変わるのには、奇跡的な力が必要です。ロケットの場合でしたら、その速度が重力加速度をこえると自由になって宇宙に飛び出すことができます。その後は、ロケットを噴射しなくても落ちてきません。重力の影響を脱出したからです。同じように復活の福音も人間を本当に自由にする力なのです。「だから奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ5:1)と書いてあります。罪の奴隷、悲しみの奴隷になってはいけない。我々のロケットは罪の引き起こす悲しみの重力を脱出しているでしょうか。

重力を脱出できなかった弟子たちの人生が変わったのは、イエス様が近寄ってくださったからです。罪にある人間は必ず自分が何かをしなければ、あの人が何かをしなければ救われないと思い込んでいます。事実は逆です。神様がしてくださるのです。しかし、イエス様は罪深い私たちを決して見捨てず、ご自分のほうから近づいて下さいます。それが、聖書を解き明かすイエスさまの姿です。

さてここで、解き明かしや解釈ということがどれほど大切かを見てみましょう。カント、シュライアーマッハー、ディルタイという人々発した「解釈学」があります。神学では、もともと解釈学は原典の著者とされている人間が本当にその著者かどうかを確かめたり、テクストを解釈したりする方法についての研究のことでした。聖書の原典に関する研究のなかで、シュライアーマッハーは、文献学者としての方法では原典の表面的なレベルしか理解できないことを悟りました。一種の「本能的直感」のようなものが必要だった。「本能的直感」は全体の認識からくることに気付いた。この全体の意識からこそ著者が書き始めたのであり、それが文献の中にちりばめられているのです。ですから解釈学の実際の実践は、部分-全体-部分という運動、つまり、常に前後する、あるいは弁証法的な過程であると発見した。それは有名な解釈学的循環(hermeneutic circle)となったのです。

そこで、25節以下をみましょう。イエス様はまさに旧約聖書全体から復活の意味についての解釈を与えました。二千年前に既に解釈学的循環が用いられていたのです。創世記の勉強は大切です。それなしには新約聖書は解釈できません。絶望の二人は、当時の聖書、旧約聖書に記されている事さえ解釈できない状況でした。それでも主イエスは二人の話を聞き、語り続けられます。解るまで共に歩まれ語り続けられるのです。イエス様の聖書解釈が素晴らしかった。失意のうちにある弟子たちに寄り添い、しかも会話のイニシアチブを取っているイエス様だった。神からくる解釈は人生を変えます。有名な発明王エジソンの言葉、発明は99パーセントの努力と1パーセントのインスピレーション。本当の意味は99パーセントの努力があっても1パーセントの神からの導きがなければ成功しない。エジソンは信仰的な人だったのです。神の解釈の力、それは人生を感謝のうちに読み取る力です。

次のターニング・ポイントになったのは、パンを裂くイエス様の姿です。これは解釈学ではない。実在の復活のイエスの姿です。この行為は直接的には共に食事をされたということですが、聖餐式を思い起こさせるものでした。これは何を表すのか。養ってくださる現実を通しご自身を現わしてくださるのです。それは、わたしたちの生きている現実、特に苦しみの現実のなかにパンを与えてくださるかたを発見することです。出エジプトの時代に、イスラエルの人々は神が与えるマナという一日分の食べ物で40年間過ごしました。この養いを忘れてはいけないと思います。ルターは一切れのパンの中にも恵みを発見しなさい、と教えました。神のご臨在はすぐ近くにあるのです。食事のたびにある。主の祈りの日ごとの糧を与えたまえです。

弟子たちは肉の主に出会っていました。ただ、死んで、もう終わりだと思っていたことが、実は終わりではなかった。ここからまた新しい人生が始まった。ここでしか本当の意味で、主と私との関係は始まらないのです。それまでは、鏡を見ているような生活だと聖書はいいます。「鏡に映った自分の姿を眺めても立ち去ると、それがどのようだったか忘れてしまう」(ヤコブ1:24)弟子たちはよみがえりの主に出会い、重要なエルサレム教会が形成され、パウロは世界大宣教へ向かう事となります。ヨハネも「わたしたちに現れたこの永遠の命を、見て、手で触れて、あなた方に伝えます」(第一ヨハネ1:2)

よみがえりの主は今なお私たちと共にいてくださっています。肉の目では見えないだけです。信仰によってとらえなくてはならない。礼拝のなかの、み言葉の宣教と聖礼典が復活のしるしです。暗い顔つきで意気消沈し望みを失い故郷に帰った彼らが、すぐ立ち上がり、夜なのに気にもせず、暗闇の中をエルサレムに急いで帰ったのは、失望と落胆が喜びと力へと変えられたからです。「人生はミッション」だ とわたしは思います。宇宙のミッションと類似性はあります。罪の重力から完全に解放された喜びの知らせです。わたしたちが自分の人生を神様からの「ミッション」として受け取るならば、そのときにわたしたちの人生は本当の意味でスタートします。いまが「時を移さず出発」するときです。み言葉の解釈である説教と、聖餐式は復活の主に出会うためのものです。ある牧師が言っています。わたしたちは、「復活の主の御臨在に気がつかないで、何かパクパク口を動かして、賛美したと思いながら礼拝を空しく過ごして、単なる説教者の品評会を行う程度の礼拝で終わって家路についてはいけない。」エマオ途上の弟子たちがそうだったように、「心が燃え」心や生活や人格の革新を受けたい。「すべての人のなかで最も惨めな者」で終わってはいけない。神は、礼拝を通して、もう疲れた悲しい、希望がない、無駄だ、そういう考えからサヨナラして、暗い顔を明るい顔にきっと変えてくださる。

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