肉的(可視的)なものと霊的(見えない神の世界)なものの違いを知る説教
「この世が見えぬもの」 ヨハネ14:15-21
聖書には肉的という表現と、霊的という表現があります。2千年前までの弟子たちも、聖霊を受けるまでは肉的な人々だったことを聖書は証ししています。
さて、肉とは何でしょうか。歴代誌上11:1には、サウル王が戦死した後にイスラエル人がダビデのもとに集まって、「わたしたちはあなたの骨肉です」、あなたを支えますと言ったことが記録されています。骨肉はこの世の堅いつながりを示します。肉はこの世のことです。50年ほど前の曲で、城卓矢という人が歌った「骨まで愛して」という曲があります。そこには、「なんにもいらない欲しくない、あなたがあれば幸せよ、骨まで骨まで愛してほしいのよ」とあります。作詞者は川内康範で、この人は小学校卒業だけで独学を重ね、脚本とか作詞を手掛けた人です。有名な曲では、「誰よりも君を愛す」、「恍惚のブルース」「おふくろさん」があり、また、月光仮面の制作者であり、そのキャッチフレーズは「憎むな、殺すな、赦しましょう」だったそうです。人と人とのつながりは肉です。天地創造とエデンの園の話の中でも、アダムがイブを見て「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2:23)と言ったと書かれています。大切な肉のつながりは悪いものではありません。人間愛とも言えるでしょう。まさに、「骨まで愛して」です。しかし、肉からは見えないものがあります。この世の視点だからです。それを聖書は伝えています。イエス様の場合はどうでしょうか。イエス様が弟子たちに聖餐式の事を話すと、彼らはイエス様を批判して、ひどい話だと言ったわけです。その時、イエス様は、「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)、と教えられました。人間的なつながりは、それが、家族であり、友人であり、教会であっても、肉ならば、フレンドシップではあっても命を与えないということです。パウロもこの点は同じです。「わたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。」(ローマ7:18)また、「お互いのあいだに、妬みや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただに人として歩んでいることになりはしませんか」(第一コリント3:3)と教えています。つまり、人間的な考えではなく、イエス・キリストという土台に立ちなさいということです。サウル王が戦死した後、ダビデを王にするために慕って集まった者は、肉でしたから、ダビデが王になってから敵対した者もでました。イエス様を慕って集まった者たちも、その動機が肉でしたから、イエス様を十字架にかけました。ほんとうに、霊が下ったのはイエス様の十字架の意味が神によって示され、パウロと同じように、「わたしの肉には、善が住んでいないことを知っています」と言えた時です。ルターも同じでした。ルターはアウグスチヌスを学びましたが、アウグスチヌスの「告白録」にあるように、「わたしの肉には、善が住んでいないことを知っています」といえることが霊的なしるしです。それは、「あの人が悪い。この環境が悪い。」と考える肉の思想やこの世の考えからは見えないことです。
今日の日課の部分で、これから十字架の道を歩もうとされるイエス様は、最後の晩餐の席で弟子たちに色々と教えました。15節に「愛しているなら、ユダヤ人の掟を守る」と書いてあります。ユダヤ人が厳しい戒律を守って神に喜ばれようとしていたことは知られています。神に認められたいと思って掟を守っていたのです。親から虐待された子供は親に従順であることが多いそうです。それは親に殺されたくないという防衛本能からくるそうです。でも、その従順さは本当の愛ではなく恐れだと思います。それは肉的な姿勢です。ところが、イエス様はこの掟の実行に愛という姿勢を説いたのです。神への愛というのは霊的なものです。神への愛が生まれると、そのことが人に対する肉的な「なんにもいらない欲しくない、あなたがあれば幸せよ、骨まで骨まで愛してほしいのよ」という態度から、真実の愛と赦しに向かうわけです。その愛は、わたしたちの性格の善さから来るのではなく、むしろ、パウロが告白しているように、「わたしの肉には、善が住んでいないことを知っています」、という霊的な反省を通して、神から与えられるものです。
ミッション・バラバという伝道でヤクザから悔い改めて牧師になった人がいます。ある先生も、最初は「なんにもいらない欲しくない、あなたがあれば幸せよ、骨まで骨まで愛してほしいのよ」という男女の愛や、暴力団の兄弟仁義に生きた人でしたが、パウロやルターと同じように「わたしの肉には、善が住んでいない」、と知って、イエス様を救い主と信じたのです。ヤクザの厳しくて過酷な世界を知っているからこそ、お前の罪の身代わりで俺が死ぬよ、というイエス様の姿に深い愛の絆を感じたのでしょう。その先生が講演会で言いました、「わたしの神さまではなく、神さまのわたし」と考える必要がある。これは霊的な態度です。多くの人は、わたしの神様という肉的な考えから抜け出し事ができず、イエス様を批判した弟子たちのようになってしまいます。「わたしの神さまではなく、神さまのわたしです」と言えるようになったら、神に助けられていることが理解できます。それこそが、霊的な出発なのです。
その助けの事を、イエス様は「弁護者を送る」と述べています。霊的な助けという意味で、これは、元来は法廷の用語です。弁護士の働きとも言えます。霊的であることは、自分中心の肉的であることと違って、弁護できることを示しています。裁判の傍聴に行きますと、法廷では罪状が読み上げられます。殺人だけでなく、詐欺、証拠隠滅、公文書偽造、特定離脱物横領、などいろいろです。現代では、共謀罪もあるでしょう。これが神の最後の審判の法廷なら、さらに多くの罪の裁きが読み上げられるでしょう。イエス様は人を裁いたら自分も裁かれるとマタイ7章で教えています。ただ、イエス様はわたしたちがどうしても裁く側に立ってしまう者であることを知っていながら、なおかつ、霊すなわち弁護者を送ると約束してくださったのです。それは、わたしたちの徹底した弱さ、わたしたちがイエス様を批判した弟子たちのようになりやすいことを御存知だったからです。イエス様は、わたしたち人類がエデンの園の時代から、霊的ではなく肉的なものであることを憐れんでくださり、そのために弁護者を送ってくださると約束して下さったのです。正しい者だから助けようというのではなく、肉的で正しくないから助けようとしてくださるのです。では、聖霊がきて、スッと救ってくださるのか。弟子たちを見ていると、どうもそうでもなかったようです。人間なら、早急な問題解決を願います。でも聖霊は特効薬ではありません。弁護人です。その意味はこれです。「あなたは罪状をあげられ非難されるでしょう。あなたの自身の心もあなたを訴え、悲しい思いに沈ませる時があるでしょう。でも安心しなさい。わたしはあなたを愛しあなたを弁護して無罪を主張する」、というのです。このメッセージを受け取った弟子たちは、聖霊降臨を受け、聖霊を受けるまでは肉的な人々だった者が新しい人々として、罪赦された人々として、罪赦す人々となり、汝の敵を愛せよと教えたイエス様の存在と一つになって伝道して行ったのです。これは、この世が見ることのできない霊的な世界でした。
聖書は正しい人によって書かれたのではありません。自分は赦されたのだと実感した人によって書かれた感謝の書物です。教会も現代の聖書です。自分は本当に赦されたし、これからも赦されると信じている人によって構成されているあつまりです。印西インターネット教会は、建物のない教会ですが、この教会の働きに参加するという事が「この世が見えぬもの」であり、素晴らしい霊的な癒しの出来事となるのです。