閑話休題

上島竜兵さん死去

「ダチョウ倶楽部」の上島竜兵さんが自殺しました。61歳だったそうです。とても残念なことです。原因はいろいろとあったと思いますが、おそらく、うつ病の状態になっていたのでしょう。うつ病になって病院に行けば、抗うつ剤を処方されるでしょう。ただ、これは対症療法であり、うつ病の根本原因を取り除くものではありません。ニュース報道から推測すると、上島竜兵さんには「死」という現実が重くのしかかっていた様です。これを遡れば、「師匠」とあおいでいた志村けんさんの死などがあったようです。わたしたちの場合にも、この危険がないわけではありません。身近な人の死の現実に接して、己が死の現実が心を沈ませることがおきます。悲しく辛い死による別れによって、死を忌避するのではなく、死に巻き込まれてしまうのは何故でしょうか。思えば、人類の文明の歴史とは、この死の現実との戦いだったともいえるでしょう。外国の本では、この点を詳しく論じたものもあります。エジプトに行った時には、ギザ地区にある壮大なピラミッド群をみましたが、エジプト文化も死を超越した来世を希求していたことがわかります。日本では、神社の入り口に赤い鳥居が立っていますが、あれは境内に神聖な結界をつくり、死などの汚らわしい力が入ってこないようにしているわけです。旧約聖書の出エジプト記を読むと、エジプトにエピデミック(疫病大流行)が起こった際に、玄関の鴨居に子羊の赤い血を塗ったユダヤ人の家族は死霊の侵入を防ぐことができたと書かれています。また、上島竜兵さんのことに戻りますが、聖書的な言い方をすれば、「うつ病」とは死霊にとりつかれている状態であって、取りつかれている本人の力や投薬では、治癒が難しいものです。何か外的な救いが必要だと思います。ただ、残念なことに、「うつ病」になってしまうと、外的な援助を求めるのではなく、どんどん孤立化していってしまいます。そして、自分が最も恐れていた死を、自分自身で選択してしまうことになります。これは、一種の洗脳状態ともいえるでしょう。自分の意志とは別の力によって誘導されてしまうのです。聖書にもこのことは書いてあります。パウロがこのように述べています。「アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」(ローマ書5章14節)この支配こそ、洗脳と同じものであり、マインドコントロールなのです。では、わたしたちは、こうしたマインドコントロールから抗うつ剤やカウンセリングで解放されるでしょうか。わたしは、アメリカでパールズのゲシュタルト・セラピーという心理療法を学んだことがありますが、その他の療法でも、心の病の治癒は難しいものです。この点はパウロも同意しています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ書7章15節)上島竜兵さんも、この「自分が憎んでいること」にコントロールされてしまったのです。そして、パウロはさらに自己分析します。「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしのなかに住んでいる罪なのです。」(ローマ書7章17節)そうです、ここに問題の根があるのです。罪です。ただ、聖書が語る「罪」とは、犯罪行為や、道徳的違反とは違います。犯罪行為や、道徳的違反は罪の結果であって、罪自体はもっと深いものです。聖書のほかの箇所まで言及する時間がありませんが、簡単に言えば、罪とは神からの離反です。神に背を向けることです。しかし、これは、神社仏閣に行かないとか、教会に行かないとかいう外面的な事とは関係ありません。また、外面的に神仏を敬っているようでも、パウロの様に、「罪」の問題の根源を知らないかぎり、心の中は神から離反しています。そして、「神とは愛である」(ヨハネ第一の手紙4章8節)と書かれていますので、罪とは、愛からの離反という意味であり、天地創造の大真理を無視することなのです。わたしたちが、心の病によってマインドコントロールされることによって、自分を愛することができなくなります。また、他者を愛することもできなくなります。これは、うつ病だけではありません。「いじめ」などによっても、自分を愛することができなくなります。それは、神という愛の存在からの、「隔離状態」に置かれたことなのです。おそらく、上島竜兵さんも死の問題だけではなく、仕事や家庭の状況においても、この「隔離状態」に置かれたのだろうと推測されます。パウロもそうでした。わたしたちも同じです。しかし、自殺にまで至っていないのは、人生のどこかで、神の愛の助けを受けているからではないでしょうか。この、愛の助けの究極を、パウロは「イエス・キリストがわたしを愛してくださって、罪(死の力)のコントロールを除去するために十字架によって身代わりの死をとげてくださった」と述べているのです。そして、この罪、すなわち死の力は、エデンの園という太古の時代に、人間の脳に深く刻まれたマイナスのワードであり、ロゴであり、プログラミングであるわけです。パソコンも同じですが、パソコンの機能障害に際して、パソコンの外側をいくらきれいに清掃しても全然問題解決にはなりません(笑)。それは対症療法と同じです。重要なのはプログラミングの問題です。マインド・コントロールの問題です。そして、プログラミングの問題は、天地創造した神でなければ、組みなおすことはできません。そして、その修理のための使者が、救い主イエス・キリストなのです。この、イエス・キリストの愛を信じたパウロは救われ、死の力によるコントロールを受けなくなりました。信じるという事は、古いプログラミングを消去していただき、新しいプログラミングによる更新を受けることです。ですからパウロも、救いのプログラミング更新を受けた後で、迫害や排斥、罵倒、試練、飢餓、どんな困難も「イエス・キリストにおける神の愛から引き離すことはできない」と悟る境地に到達したのです。とても楽しい笑いを提供してくれた上島竜兵さんが自殺はとても残念なことでした。残念であるがゆえに、印西インターネット教会では、同じような心の痛みを持っている人に、パウロやほかの弟子たちが発見したイエス・キリストの愛を知っていただきたいと願っています。わからない点は、お問い合わせ蘭をとおしてメールで聞いていただければ、何かのお役に立てると思います。

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