使徒言行録17章16節–34節 文責 中川俊介
伝道の舞台はアテネに変わります。パウロが以前この地に来たことがあるかどうかは不明です。しかし、誰でもギリシア文明の発祥の地であるアテネに来たら、丘の上にそびえる白亜のパルテノン神殿の威容に心を打たれることでしょう。真、善、美を尊んだその文化の影響は現代でも消えることはありません。「偉大なアテネの時代は過ぎ去ってしまったとは言え、アテネは民主主義揺籃の地として輝かしい伝統を持っていました。」[1] 西洋文明そのものがギリシア文明の延長線上にあるといっても過言ではないでしょう。「ルカにとってもアテネは、いまだにヘレニズムの頂点の町でした。」[2] その人知の最先端の地に、パウロは救い主イエス・キリストの福音を携えて登場したのです。
テサロニケを脱出し、ベレアを通って、パウロたちはアテネに到着していました。そこで、あとから来るシラスとテモテを待ったのです。パウロのいつもの行動パターンでは、その町のユダヤ教の会堂を訪問してキリストの福音を説いたわけですが、アテネではそのようにしていません。16節にあるように、パウロはアテネ市内をまわってみて、いたるところに神の像があるのを見て憤慨しました。「しかもその美しさのゆえに、すべて真剣に神を仰ぐことから離れさせるものである。」[3] この「憤慨」という言葉は、実際に怒ったという意味もありますが、刺激を受ける、あるいは居ても立ってもいられない気持ちになるという意味を持っています。パウロはそれまでに、小アジアなどでも異教の神像は見ているはずですから、ここでは、怒ったというより、「何で彼らはこんな意味もないものをたくさん作って拝んでいるのだろう」というような残念な気持ちもあったのかとも思います。それは、パウロが神の真実をイエス・キリストを通して既に知っていたからです。現代でも日本では仏像や、ご神体というものがたくさんあって、あたかも2千年前のアテネの様です。現代のアテネではそれらの神像を拝んでいる人はいません。
次に、ユダヤ教の会堂のことが17節に出ています。ですから、いつものようにパウロは町の中のユダヤ教の会堂に行こうとしたら、その途中に、あまりにも多くの神像が祀ってあって、それに問題性を感じたのでしょう。ただ、この部分を詳しく見ると、パウロの議論が二つの面に関してであったことが分かります。会堂ではユダヤ人やユダヤ教を信じていた異邦人たちと、イエス様が救い主であることについて議論したのでしょう。きっと、様々な形で聖書を引用して、パウロは語ったと思います。他方、広場というのは民衆が裁いたり議論する塲ですから、そこではギリシア人と神の真理、偶像の無意味さなどについて議論したのでしょう。パウロは黙っていることが出来ませんでした。また、これは、ローマ市民であり、ギリシア語に堪能なパウロだからこそできたことでした。
この議論は、一般民衆とだけではありませんでした。学問の中心であったアテネには、プラトンが紀元前387年に開設し、紀元529年に閉鎖されるまで多くの哲学者を輩出したアカデメイア(アカデミー)という学園があったのです。ここに登場する、ストア派の哲学者は道徳と知識の向上による心の平安を説いたのです。ここから「ストイック」という表現も生まれています。禁欲主義も含まれていたのです。一方、エピクロス派は正反対であり、快楽主義とも言われます。ただ、エピクロス自身は精神的な快楽を重視し「パンと水さああれば、ゼウスと幸福で勝つこともできる」と述べたと伝えられています。少し説明が長くなりましたが、議論するパウロの前に現れたのは、このような哲学者たちだったのです。「ここで初めてキリスト教は、ギリシア哲学と交渉することになります。こののち初代教会の、最大の問題は、信仰と理性の問題であります。」[4] この場合、当時の最高の教育を受けたパウロがギリシア哲学に対して無知だったとは思えません。むしろ、それを熟知しながら、イエス・キリストの福音を伝えたのでしょう。哲学者たちの反応から、パウロがかなり雄弁だったことがわかります。福音を伝えるには語ることが大切です。わたしたちの伝道方法について一緒に考えてみましょう。
パウロのメッセージを理解した人はあまりいなかったようです。パウロのことを、単なる「おしゃべり」と考えた人、あるいは「外国の神の宣伝者」と考えた人などがいただけでした。福音ということが分からなかったのです。わたしたちはどうでしょうか。長く教会に来ている人がどれほど福音をつかんでいるでしょうか。もしかしたら、福音ではなく、ストア派の道徳をキリスト教の教えと誤解している人がいるのではないでしょうか。それは道徳宗教です。人に優しいこと、親切なこと。それ自体は悪いことではありません。しかし、徹底的に欠けているのは罪の理解です。人が、救い主の助けなしには、正しい人ではありえないという点が見えないのです。教会でも、その教えが道徳主義に堕するときに、出て来るのは「正しい人」による「悪い人」の批判です。こういう道徳主義に教会は警戒しなくてはいけません。
19節に出てくる「アレオパゴス」というのは現存する場所であり、パルテノン神殿が立つアクロポリスの丘の隣にある丘の事です。「アレオパゴスは、宗教、学派、町の良い習慣について監視するアテネの議会であった。」[5] つまりここで、古代アテネの評議会が行われていたのです。こうした公式の場でパウロはイエス・キリストの福音を語ることになりました。それまでのパウロの宣教は、もっぱらユダヤ会堂の中でしたから、この時点で、本当の異邦人たちに語ることになった訳です。神の不思議な経綸といえます。パウロが自分で選んだことではありませんでした。
その場で、パウロは果敢に彼の信じることを述べました。22節にあるようにパウロは評議会の会場であるアレオパゴスの真中に立ち大勢の聴衆に向かって演説したわけです。それまで、多くの迫害を経験してきたパウロにとって、話を熱心に聴く人々に語りかけるほど嬉しいことはなかったでしょう。またとない機会でした。ここからが、異邦人に向けてのパウロの説教となっています。「パウロの伝道は、決して挑発的でも戦闘的でもなく、聴衆の弱さに深い同情を示し、彼らの求めに真剣に答えています。」[6] わたしたちが説教を聞く時、どんなことが印象に残るでしょうか。皆で考えてみましょう。
パウロの語りかけは、友好的な言葉で始まりました。「信仰のあつい方々」であるとしたのです。ですから、もし、最初にパウロが町を巡回してみたときに、たくさんの偶像を見て憤慨したのであれば、ここに書いてあることは全く嘘になります。パウロはアテネ市民が信仰深いなどとは少しも思っていなかったことになります。本当にそうでしょうか。パウロが説教のための方便として「信仰のあつい」と言ったとは考えにくいものです。しかし、ギリシア語本文を見ますと、ここの言葉は日本語では「信仰」と訳するより、「神的存在を恐れる心が非常に強い」という意味であり、「宗教的」と訳した方が適切かと思います。そうすれば最初にあったパウロの印象と食い違うことはありません。大切なのは、パウロが土着の信仰を批判せず、彼らの宗教性を認めたことです。これは、異邦人伝道には大切な点であるでしょう。また、ちなみに、「認めます」という訳より、「気づきました」の方が誤解をさけることが出来ます。
23節でパウロはアテネ市内で自分が経験したことを基本にして、神論を展開します。救い主については語っていません。まず、天地創造の神についてでしょう。町の中で、パウロは「知られざる神に」と刻まれた祭壇に注目しました。パウロはそれを彼の説教の導入部分としました。この神をお知らせしましょうと言うわけです。まことに賢いと言えるでしょう。何か新しいものではなく、もうすでに「知らずに」崇拝している方を告げましょうと言うのです。新しい物好きのアテネ市民が耳を傾けたのは言うまでもありません。
24節からが、天地創造の神についてのパウロの発言です。そこで、神と神殿、神と偶像が全く無関係であり、神は地上の被造物を超越する唯一の方であると説きました。神々の中のもう一人の神ではないのです。25節の内容も同じです。神の超越性です。人間の作品ではないはずです。そして神こそが命の与え主なのです。26節で、パウロはアダムとイブという特定の名前こそ出しませんが、最初の人類がつくられ、そこから地上の民族が発生したと述べました。これは現代の遺伝子的な研究でも明らかなことであり、二千年前のパウロがこれを確信していたことは驚くべきことです。
27節には、神論ではありますが、非常に福音的な内容が述べられています。神は、人類が神を求める事を望んでいるというのです。関係を回復しようとしているのです。それだけでなく、人間が神を探し求めるならば、神を見出すことが出来るように、神は近くにおられるのだと言うのです。それだけではありません。パウロは28節でギリシア人の詩人の言葉を引用し、人間と神との親しい関係を立証しようとしました。「パウロはストア学派の詩人で、クレテ人エピメニデスのことばを引用して結論を下しています。」[7]ここで、パウロは人間が神の子孫だと言っています。「神の子」と同じ意味でしょう。だから、偶像は意味がないのだと言うのです。
さて、そこまでは非常にわかりやすく神論を展開したパウロでしたが、30節以下で本論とも言える部分に入ります。神は人間に友好的だが、それは無知を承知で忍耐して下さっているのだというのです。「それでは、どうして彼らは、生けるまことの神を知ることが出来なかったのでしょうか。それは、彼らが罪を持っていたからです。」[8] )そして今は、悔い改めるように「告げ知らせ」ているというのです。「命じる」というのは少し誤訳になると思います。自分の知識を過信せず、自分を捨て、相対化することです。31節からイエス・キリストに触れます。ただ、アテネの市民にはこの名称は意味が不明なので敢えて使用していません。パウロの賢さです。パウロはイエス・キリストを「選ばれた者」として伝えています。わたしたちも日本ではこうした方が良いかもしれません。その選ばれた者の復活によって、神は裁きの日を定めたことを示されたというのです。「ギリシア人の考えには、そのような、聖書が告げている、終末論的な審判の考えはなかった。」[9] つまり、死んだらそれで終わりなのではなく、死者のよみがえりによって、神の審判があることを示したというのです。ですから、復活は、パウロの神観からいうと、単なる命の再生ではなく、もう一度すべての人が神の前に立たなければならない終末の時の審判を表わしているのです。この時に、わたしたちが神に対してどんな姿勢を持っていたのかが厳しく問われるのです。今は、神の忍耐の時なのです。神は人が勝手に偶像を造り、神自身を無視して、偶像を拝むのを忍耐されて、真の神に気付くのを待っておられるのです。
最初は熱心に聴いていただろうと思われるアテネ市民も、悔い改めとか、死者の復活、そして審判の話になると、もうついていけませんでした。なんだか理解できなかったのです。ストア派の人々もエピクロス派の人々も、人間存在を肯定していましたから、「悔い改め」ということが分からなかったでしょう。また、彼らの多くは物質主義でしたから死者の復活も理解できなかったでしょう。アレオパゴスに集まった人々の多くは失望しました。33節にはパウロもその場を立ち去ったと書いてあります。しかし、大勢の群衆の中にはパウロの説教によって信仰を持った人もいたようです。その中にはアテネのアレオパゴス評議会の議員であったディオニシオや、たぶん主だった人の夫人も含まれていました。ディオニシオは後にアテネの初代監督になり殉教したと伝えられています。異邦人に対する福音宣教はこうして小さいが、大きな一歩をアテネで踏み出したのです。これは異邦人伝道に日々遭遇している日本人クリスチャンにとっても大いに参考になる記事です。
[1] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、128頁
[2] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、165頁
[3] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、225頁
[4] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、251頁
[5] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、226頁
[6] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、142頁
[7] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、142頁
[8] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、145頁
[9] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、361頁