閑話休題

UN FIORE DAL DOLORE NASCERA (花は悲しみから生まれる)

だいぶ前にサイモンとガーファンクルの歌で流行した「コンドルは飛んでいく」のスペイン語歌詞を見てみました。そして、冒頭の歌詞が心に残りました。南米の人たちは、その歴史の中で、外国に侵略されたくさんの悲しみを経験したわけです。そして、南米の住民は、ネイティブアメリカンと同じように、先祖はアジア人ですから、西洋人とは違うメンタリティーを持っているわけです。それが、この「花は悲しみから生まれる」という句に現れていると感じました。わたしは、外国で何年も過ごした経験がありますが、アメリカでもイスラエルでも、文化的には「悲しみ」というものにあまり意味を与えません。明るく、元気で、生き生きしていることが人生評価の基準です。ところが、日本では違います。第一に、「鎌倉殿の13人」にも出てきますが、九郎義経は謀反によって悲劇の死を遂げました。そして、日本では、彼を偲んで判官贔屓という言葉さえ生まれました。悲しみに対する、一つの価値観です。太平洋戦争でも多くの若者が戦地でその命を散らしましたが、その悲しみも、戦後の復興において一つの価値として働いたと思います。悲しみは、無駄な事ではなかったのです。なぜなら、それは犠牲だからです。命は犠牲の上に成り立っています。それを、東洋の思想は把握していたのです。そうはいっても、最近の日本の若い人たちは、西洋思想にドップリつかってしまい、明るい事、力強い事、勝つこと、楽しい事(吉本興業の功績?)、成功すること、立派な事、評判がいい事、元気な事などが大手をふるって、唯一の価値観であるような状況を呈しています。でも、これって、絶対なのでしょうか。ポジティブなことは、勿論、悪くはありません。しかし、論理的には、ネガティブなものなしにポジティブは成立しません。簡単に言えば、プラスばかりでマイナスのない計算式は存在しません。自然界でも、犠牲なしの成長はありません。木々は命を与えて土壌を肥やし、そこから流れ出た栄養ある水は、大洋にプランクトンを生み、魚介類を育てます。わたしたち人間も、魚や家畜の犠牲的命をもらって命をつないでいます。ですから、昔から東洋の人間が、人生の犠牲的悲劇に涙を流すだけでなく、そこに「花」のような価値を見出したのは、正解だったと思います。それを、UN FIORE DAL DOLORE NASCERA (花は悲しみから生まれる)で深く感じたのです。それだけではありません。キリスト教を少し知っている人なら、DOLOREという言葉が、ヴィア・ドロローサ(キリストが十字架を負って歩んだ悲しみの道)と関係あることに気付くと思います。そうなんです。キリスト教の根源は、悲しみの十字架なのです。そして、キリストが負ってくださったのは、わたしたちの悲しみなのです。この悲しみに価値を与えた芸術作品が西洋にもあります。ミケランジェロの彫刻であるピエタです。ピエタとは、敬虔な哀悼という意味だそうです。それは架刑後のわが子、イエス・キリストを膝の上に抱く母マリアの悲しみを現しています。悲しみは、悲しみによってしか昇華されないという事を昔の人は知っていたのでしょう。南米の人も、それを知っていました。だから、UN FIORE DAL DOLORE NASCERA (花は悲しみから生まれる)なのです。現在のキリスト教神学は、悲しみを排除した西洋神学一辺倒ですが、北森嘉蔵先生が「神の痛みの神学」で提唱したような、悲しみを基底とした神学の構築が待望されるところです。あの、近代西洋陳学のチャンピョンであったカール・バルトでさえ、神の存在は、砂に残された足跡のような、ネガティブなしるしによってしか理解しえないと述べています。そして、この貴重な印こそが、十字架であり、十字架の神学であり、その他の明るく賑やかで前向きの神学は人間の楽観思考の産物に過ぎません。UN FIORE DAL DOLORE NASCERA (花は悲しみから生まれる)の言葉に触れて、わたし自身も、再び十字架の悲しみと、そこから生まれる花に希望を見出す事が出来ました。パウロも「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(ローマ書9章2節)と書いています。しかし、「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」とも語っています。つまり、パウロは悲しみから生まれた色褪せない花を持っていたのです。

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