印西インターネット教会

”逆走”高齢ドライバー事故

わたしの住んでいる千葉県で自動車事故がありました。幸いに死者は出ませんでしたが、被害者は重傷を負い、新婚夫婦の楽しい旅がメチャメチャになりました。気の毒な事です。ただ、現在の日本では、人身事故は年間に3万件前後あります。しかし、そのなかで、この南房総で起こった事故が特別に報道されたのは何故でしょうか。事実を確認しなければいけないと思います。幸いにも、被害者の車のドライブレコーダーに事故当時の様子が克明に映っています。第一に、報道記事では”逆走”と書いてあったので、高速道路のような一方通行の場所を逆走したのだと思っていました。ところが、事故現場は、交通量の少ない田舎の一般道でした。そして、映像を見て分かりました。そのニュースが、本当の逆走ではなく、”逆走”と報道していたのには理由があったのです。つまり、誇張です。加害者の車は、カーブを曲がるまでは左車線を走っていたのがハッキリ見て取れるからです。ただ、カーブがきつかったので反対車線へはみだしてしまい、運悪く、被害者の車に正面衝突してしまったわけです。その詳細は映像にでています。ただ、第二の問題点として、加害者が高齢者だったという事が強調されています。しかし、加害者はまだ73歳であり、後期高齢者でもありませんでした。年間3万件の事故を精査すれば、若い人でもカーブを曲がり切れなくて起こす事故はかなりあると思います。ところが、今回は、「”逆走”高齢ドライバー事故」というセンセーショナルな見出しになっていて、なんだか「高齢者いじめ」とか「社会活動からの高齢者除外政策」のようになっているなと感じたのはわたしだけでしょうか。実際に、高齢者の運動能力が若い人より低下しているのは事実です。ただ、日本の事故件数は毎年減少しています。そして、この事故の加害者もそうですが、あの戦後のベビーブーマーたちがまだハンドルを握っていて、社会活動しているわけです。もし、高齢者が事故の大半を起こしているとしたら、ベビーブーマー(現在の高齢ドライバー)のさらなる高齢化によって、事故件数が激増しているはずではないでしょうか。なんだか、これも冷静に考えればおかしな話です。それに、交通の便が悪い地方では、高齢者だといっても、買い物や病気の治療、そしてや介護などに自動車は必需品です。例えば、わたしの知人で茨城県の田舎に住んでいる人がこう言っていました。その町にはバスが通っているけれど、一日2便しかない。だから、車のないお年寄りたちは、朝の便で町まで買い物に行き、夕方の便で帰ってくると。だから、高齢者と言えども、用事がある人は自動車を運転せざるを得ないわけです。今回の、南房総の件の背景はまさにそれだと思います。しかし、今回の「”逆走”高齢ドライバー事故」という報道で、どれだけ多くの真面目な高齢ドライバーがつらい思いをしたことでしょうか。勿論、自分の限界を感じて免許を返納するのもいいでしょう。しかし、それを社会的に圧力をかけて強制するのは自由主義社会の思想に逆行することだと思います。幸いに、高齢者の認知試験や技能試験が強化されるということですので、運転資格の是非は、年齢よりも各個人の能力で判定すべきものと思います。自動車教習所の教官はそれをよく知っていると思います。若い人でも、能力や性格が運転に不適正な人は少なくないと思います。ただ、お金を払えば免許はとれてしまいます。今回、どちらかというと起伏の少ない南房総で、事故を起こしてしまった加害者も、年齢というよりは、むしろ、もともと運転能力が低かったのではないでしょうか。映像に映っている程度のカーブで、減速せずに反対車線にはみだしてしまうのは考えられないことです。日本の険しい山岳地帯で山間部をうねる急カーブでも、注意深くハンドルを握っている高齢者の方々には、大変に残念な報道の仕方だったと思います。”逆走”というのは報道のための報道でしかなく、注目を集めるための事実の誇張だったからです。高齢者については聖書にこう書かれています。「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」(箴言16章31節)「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」(レビ記19章32節)どちらからの引用でも明らかなように、聖書では、高齢者と神の存在を切り離してはいません。高齢者が長い期間、神から与えられた命を保持しているのには、神にしかわからない理由があるのです。ですから、日本に高齢者が多い事も、偶発的な事ではなく、世界に誇ってよい神のご加護が示されているという事になるでしょう。社会活動から排除すべき対象ではなく、大切な存在だといえます。

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