悩むことのなかったパウロの行動基準を聖書から学ぶ
使徒言行録18章18節-28節 文責 中川俊介
コリントの裁判事件では、総督ガリオンの判断によって告訴そのものが棄却されて、大事にはいたりませんでした。それに、この判例は以後の伝道活動に有利に働いたと思われます。
18節を見ると、暫くのコリント滞在の後、パウロたちは船でシリア州に行ったとあります。シリア州とは現在のシリアを中心にトルコ南部まで広がる地域であり、パウロたちの伝道の中心地だったアンティオキアなどもこの地域に属します。「彼は約二年間にわたる第二回伝道旅行を終えて、一まず帰ろうとしているのです。」[1] 文面では、コリントに残った者もいるしパウロに同行した者もいたようです。パウロの同業者であり、よき信仰の友であったプリスキラやアキラもパウロと共にシリア州に向かいました。パウロが髪を切ったケンクレアイという場所はコリント近くの海岸の港町でした。ここにはパウロたちが船出したと思われるローマ時代の波止場がまだ残っています。古代イスラエルでは、特にナジル人などの場合、誓願を立てたときには、誓いを立てた期間中は身を清く保ち髪を伸ばしました。おそらく、パウロもこうした古い習慣に従って、伝道の願をたてて髪を伸ばしていたのでしょう。「ルカはおそらくパウロがユダヤ教には非常に忠実な人物だったことを表現したかったのであろう。」[2] パウロはイエス・キリストの新しい福音を伝えていましたが、古い宗教的伝統もすべてを捨ててしまうことはありませんでした。大切なのは優先順位です。中心点がしっかりしていれば、あとはアディアフォラ(周辺的)の問題なのです。ルターもこの姿勢でした。「この誓願は、パウロがアカヤの地を去って、エルサレムに出発するその日に関わっていると、報知は語っている。」[3] あるいはコリント伝道が無事に進むことを願っていたのかもしれません。コリント滞在の期間がその誓願の時であったならば、一年半後にはかなり長髪になっていたでしょう。「誓願の成就にさいして、頭髪を剃り落しエルサレムの神殿で犠牲を捧げるのがならわしになっていた」[4]
彼らはエーゲ海を横切ってまずエフェソに到着したと19節に書いてあります。ここは最初の伝道旅行では訪れていない場所です。アジア州では御言葉を語ることを聖霊によって禁じられていたからです(使徒16:6)。エフェソは現在のトルコの西方にあたる当時のアジア州の首都でした。やはり、パウロは都市中心に伝道をすすめたのです。ですから、到着するとすぐに、ユダヤ人会堂にいって救い主に関することを議論しています。「パウロが語るとき、いつでもそこには強力な支持者と強力な反対者が現れます。」[5] それは、福音がもっている力だといえます。例えば、薄暗い部屋に光がともれば輝く部分と陰になる部分がはっきりわかりますが、光(福音)なしには、全ては灰色でしかありません。宗教改革などはまさにこの例でしょう。個人の生活でも同じです。ただ、このさいに、プリスキラもアキラはその議論には参加していません。
20節では、人々がパウロの長期滞在を願ったと書いてあります。おそらく、エフェソのユダヤ人にとってパウロのメッセージは興味深かったのでしょう。アテネやコリントなどのギリシア都市に比べ、エフェソは世界七不思議の一つと考えられたアルテミス大神殿があったくらいですから、宗教的な関心は強かったことでしょう。パウロは、人々の願いを断り、神の御心ならばまた来ますと告げてそこを去りました。おそらくエルサレムの使徒たちに献金を運び、誓願成就の犠牲をささげるために過越祭にでることを優先したのでしょう。「当時、航海は3月10日まで禁じられていた。そして紀元52年の過越祭は4月初めだった。」[6] 偶然の一致かもしれませんが、エフェソ書を見るとその書簡の巻頭に「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」と書いてあります。パウロにとって、自分の願いや計画ではなく、神のご意志を求めていくことがどれほど重要だったかがわかります。「パウロの行動の基準はいつも、神の御旨以外の何ものでもありません。」[7] 実際に、パウロは神に導かれてエフェソに戻り、三年間も伝道しています。ここで、わたしたちの人生にとって、神の御心とは何なのかを話し合ってみましょう。
エフェソでの短い滞在の後でパウロの一行は、カイサリアに到着しました。これもかなり長い船旅でしたが、それについては記載がありません。カイサリアは現在も残っているイスラエル西岸の古代遺跡です。都市のすぐ近くに港がありました。また、都市に水を供給する水道遺跡なども残っています。ここはユダヤ州の首都でありローマ軍が駐留し、ローマの総督も常駐していました。パウロたちはここからエルサレムへのぼり、エルサレム教会に伝道報告し、伝道地の教会からの献金を届けました。これは、義務というより、報告と財政的支えの中に、キリストの教会が一つの交わりであり、相互に関心を持ちささえあっているのだという証しです。教会の本質を示しています。逆に、教会が会員同士や地域の隣人への関心を失い、支え合うことがなければ、教会は名ばかりとなります。パウロはその後アンティオキアに行きました。「アンテオケの教会こそは、彼を伝道者として仕立て上げてくれた教会です。」[8] これもかなりの旅ですが、ルカが十分な資料を持っていなかったためでしょうか、詳細はわかりません。「この部分の、早急さはギリシア語本文でも分詞の多用という形であらわれており、1500マイルもの旅程がたった2節にまとめられている。ルカは驚くような速さで自分がパウロに随行していない旅の記事をまとめている。」[9] ただ、パウロが遠距離を旅してエルサレムの使徒たちに伝道の状況を伝えたことは重要であり、ローマ帝国内に広がった教会が教理や方針の一致を保つことがさまざまな迫害や異端への防波堤となっていたのです。23節には、パウロがアンティオキアにしばらく滞在したのち、以前に伝道した、ガラテヤやフリギア地方を巡回して弟子たちを励ましたとあります。もうすでに、この辺からパウロの第三回伝道旅行が始まっているのです。パウロの伝道を一言でいえば、福音の種蒔きと育成だったのでしょう。「成長させてくださるのは神である」という言葉そのもののように、途中は神に任せ、時に応じて訪問や手紙によって励ましを与えたのです。宗教改革の際に、ルターなどもたくさんの励ましの手紙を残しています。現代でも、教会全体が福音の育成に何ができるかを話し合ってみましょう。
さて、場面は変わって、パウロの去った後のエフェソのことです。24節にはエジプトの地中海岸の大都市アレキサンドリア出身のアポロというユダヤ人がエフェソに来たとあります。アレキサンドリアは聖書学でも有名であり、旧約聖書のギリシア語訳である70人訳ができたのもここでした。アポロは雄弁家でした。そして、彼は主イエス・キリストを受け入れたクリスチャンでした。広い地中海を横切って、このような人的交流が行われたことに驚きを覚えます。これも、パックス・ロマーナ(ローマの平和)と言われた帝国内の自由な交通があったから可能だったのでしょう。神はイエス様の福音を広めるために、パウロという国際的な教養を持った人を選び、ローマ帝国という一つの高度に発達した文化圏をその伝道の場として備えてくださったのです。アポロもイエス様の事については詳しかったのですが、ヨハネの洗礼しか知らず、イエス様の復活の後の聖霊降臨や、異邦人に聖霊が降ったことなどは知りませんでした。このことによって、福音の伝わり方が同じではなかったことが分かります。現在の日本でもキリスト教は伝わってきています。しかし、わたしたちが理解するキリスト教は、パウロたちが伝えた正しい教えと同じでしょうか。この点を皆で考えてみましょう。
幸いなことに、エフェソにはプリスキラもアキラが残って伝道していましたので、アポロを家に招き、知識の欠けた所を指摘し、彼に詳しく教えました。学識高いアポロが一介のテント造り職人の話に耳を傾けたという事、そして、それを批判ではなく温かい助言として受け止めたことも信仰のなせるわざでしょう。「今日、建て上げられていくべき教会が建て上げられていかないのは、ともに重荷を負い合う暖かい愛の労苦がなされないで、冷たい批判だけがあるからではないでしょうか。」[10] 特にプリスキラの活動をルカは重視しています。「それによって私たちは、この婦人が、コリントやエペソの教会建設の時に、非常な霊的力をもって協力したことが分かる。」[11] パウロと彼らが共に過ごした一年半は無駄ではなかったのです。プリスキラもアキラは熱心な信徒でしたが、それに加えて正しい教理を身に着けていました。日本という異国の地での伝道も、単なる熱心さだけでなく正しい救いの教理を一人でも多くの信徒が「正確に」身に着けることが大事でしょう。この点を押さえておくことが教会形成の急務であると感じます。であるとすると、これはプリスキラもアキラの功績だけではなく、パウロがテント造りのかたわら、時間さえあれば、正確な教理をプリスキラもアキラに教えていた結果だといえます。教会はイベントや社会奉仕で賑わいますが、その根幹は、やはりこの教理の伝達による救いの確信の形成だと思います。パウロの伝道はそういう点で成功していたのだといえるでしょう。「アポロはキリスト教の教えをパウロの同僚から受けたのであるから、彼はパウロの神学的な傾向を受け継いでいただろうし、実際にパウロはそのことを示している。」[12](第一コリント3:5-9)わたしたちもプリスキラとアキラがしたように、相手を冷たく批判するのではなく、親切に「招いて」教えや教会の姿勢を伝えることができるでしょうか。話し合ってみましょう。
27節には、このアポロがアカイア州での伝道をのぞんでいたと書いてあります。パウロが伝道したコリントはアカイア州の首都でしたし、そこにはまだ多くのやり残された仕事があったでしょう。アポロがそこに行くなら、伝道の働きが継続し発展することが期待されるのです。ですから、エフェソの信徒たちはアポロを引き留めずに、アカイア州の教会へアポロのために推薦状を書きました。
27節の後半には、アポロがアカイア州に到着した時のことが書かれています。その表現として「既に恵みによって信じていた人々」とあります。美しい表現でもあります。信仰が中心なのは明白ですが、それも「わたしが自分で信じた」というのではなく「恵みによって」信仰を神から授けていただいたのです。ここでは誰も自分の信仰を誇ることはできません。神からの賜物だからです。しかし、そこに、たった1パーセントでも自我が入ってくると恵みとか神の絶対性を曇らせてしまいます。100パーセントの恵みの賜物としての信仰に感謝する者でありたいものです。
アポロの活躍は目覚ましいものでした。彼のメッセージは聖書に立脚したものでした。聖書にはメシアの受難と復活が預言されています。イスラエルに現れたイエス様こそ、この預言の成就として人類の罪の贖いのために十字架にかかられ、三日後に復活されたのだと説いたのです。興味深いことに、アポロは反対派のユダヤ人や懐疑的な人々に「激しい語調で説き伏せた」と書いてあります。パウロも議論においては激しさを持っていましたが、アポロはこの点ではパウロ以上だったかも知れません。穏やかな諭しもあるでしょうし、敵対者や反抗者を強く説き伏せることも神はお許しになったのでしょう。伝道には決まった形はないのだという、一つの具体例です。神は、自分をささげた様々な人々と様々な方法を用いて福音を伝えられます。プリスキラやアキラ、そしてパウロがそうだったように、わたしたちも神に召され、己を捨て神の御心に従う神の器ではないでしょうか。
[1] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、185頁
[2] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、172頁
[3] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、238頁
[4] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、300頁
[5] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、187頁
[6] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、378頁
[7] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、263頁
[8] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、194頁
[9] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、379頁
[10] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、204頁
[11] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、242頁
[12] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、300頁