いつまでも古いものに拘泥してはいけないことを学ぶ説教
「神によるトータル・リニューアル」 マタイ7:15-29
新約聖書に時代にも預言者がいました。洗礼のヨハネは代表的預言者と考えられています。その他にも新約時代の預言者の記述があります。その多くは神の言葉を取り次いでいるようではあったのですが、イエス様には偽物がすぐにわかりました。そこで、弟子たちに本当の預言者と偽預言者の見分け方を教えています。偽預言者でも外側は羊であるという事は、羊がそうであるように無害に見えるということでしょう。優しくて丁寧なのかもしれません。ところが内側は神の僕ではなく、強欲な狼、つまり人間的な欲望に満ちているわけです。それは外見からはわからず、その実でわかると言います。ギリシア語で「実」とはカルポスという言葉です。これは植物の実だけでなく、外に現れた行為や行動、結果などを意味する言葉です。イエス様は、人を外見の美しさや柔和さ、穏やかさで判断しないように教えました。この点が今日の日課全体に共通する点です。外面的な言葉、実のないモミのようなものなのか、それを実践するという実を持つのか。パウロは言います。「聖霊の実は、愛、喜び、寛容、親切、節制などです。」(ガラテヤ5:22以下)また、ヨハネ福音書15章:4「あなたがたは、わたしにつながっていなければ実を結ぶことはできない」とあります。実とはイエス様に結び付けられた行動のことです。そして、パウロは聖霊の導きに従っていくと、かならずイエス様のもたらす実を収穫できると教えています。それはその人自身がリニューアルされ命に溢れるからです。
イエス様に結びついているという事は礼拝していることでしょう。礼拝はわたしたちをリニューアルして良い実を結ぶように変えます。ルターは言いました。「わたしはあなたの神である、という言葉が、礼拝について語りうるあらゆるものの基準である。」神と礼拝は別ではなく一つです。礼拝に結び付けていただくことは神に結び付けていただくのと同じ意味です。素晴らしい機会だと思います。ところで、コロナ禍で苦しむ現在、わたしたちは教会での物理的な集合体としての礼拝から、み言葉を中心とした、場所に制限されない礼拝形式を考える必要があると思います。
イエス様は「主よ、主よ」と言ってみても、神さまの御心を行っていなければ実を結べないと教えました。それはその人の努力が足りないのではない。聖霊によってリニューアルされていないからです。教会の暦では、クリスマス前の待降節やイースター前の四旬節が注目され、わたしたちも特別な季節と感じます。ところが、聖霊降臨後の期間は長期間にわたりますし、大切なのに重要性が感じられにくいものです。ところが実は、教会にとって聖霊降臨後の期間は、わたしたちがリニューアルされる最も大切な期間です。そして、それがまさに今日の日課です。イエス様は、まさに「わたしはあなたに実を結ばせる神である」と今朝も語ってくださっています。それを信じるときにリニューアルされます。「わたしはあなたに実を結ばせる神である。わたしに結び付いていなさい。」という言葉を信じることが大切です。自分はこんなに努力しているのに結果が出ないと悩むかもしれない。しかし、それではまだ自分が死んでいない。良い実を結ぶのは人間努力ではない。むしろ反対です。自分は罪深い存在であり無力である。この徹底した自覚が、悔い改め、つまり方向転換となります。悔い改めて福音を信じることです。
ですから、真の礼拝は、わたしたちの罪と無力を自覚し、「それでもなお、わたしはあなたを愛し続けてやまない愛の神である」、という言葉に励まされることです。それを聞き取ることが清められ、罪赦され、神によって生まれ変わらせていただくことです。それは、教会という場所以外でも可能なはずです。神のみ言葉によるリニューアルだからです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:1以下)、と書いてある通りです。
そこで、イエス様は建物の喩を語りました。イエス様自身が大工さんでしたから、どんな建物が災害に強く、どんな建物が弱いかを知っていたでしょう。イスラエルには温泉もありますが地震もあります。ですから、聴衆たちもこの喩は身近な例なので納得できたでしょう。イエス様の言葉を信じ、聖霊の導きに従って行動することが土台です。イエス様が裁くなと教えたら裁かないことです。他人を裁かないし、自分をも裁かない。イエス様が思い悩んではいけないと教えたらそう信じて悩まない。イエス様が天に宝を積みなさいと聞いたら、地上の宝を重要視しない。物に執着しない。そして、イエス様が神に求めなさい、そうすれば与えられると教えたら本気で求める。それがイエス様の教える、信仰と実践の意味です。聞くことと行うことです。それが岩を土台とした家です。それは、生まれつきの人間の家ではなく聖霊によってリニューアルされた家です。
反対リニューアルされていない家はどうでしょうか。外側にはまたく問題がありません。しかし、危険に弱い砂の上に建てた建物なのです。わたしは教会の現役時代に、ルーテル教会をはなれて12年間千葉県で開拓伝道していたことがありました。ある時、結婚式の司式を頼まれて幕張の大きなホテルの結婚式場にいきました。そのときに、係の人が言いました。砂の上に建てた建物の話は避けてください。その式場は高層ビルの最上階でした(笑)。以前、その結婚式場で、ある牧師さんが、結婚する2人の築く家庭は砂の上に建てた建物の様であってはいけないと説教したそうです。式は無事に終わったのですが、あとでその牧師さんにホテルの責任者からあの話はやめてほしいとクレームが来たそうです。実は、そのホテルは幕張の砂浜の上に建てられたものだったのです。また、ほかの時は、隣の町だった白井というところの駅の近くに巨大なマンションが建設されました。おそらく200世帯以上がはいれるサイズです。誰でもこんなマンションに住めたらいいなと思うような、見晴らしがよく駅まで数分の利便性の高いマンションでした。しかし、それは誰も住む前に壊されました。姉歯建設がつくった耐震構造が不完全な建物だったからです。外見は良かったのに内部に問題があったのです。イエス様の話にでてくる見掛け倒しの宗教性も同じです。
では、わたしたちの人生の土台、人生の地盤はどうでしょうか。聖霊によってリニューアルされているといいですね。イエス様はナザレの会堂で「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)といって説教しました。イエス様の言葉を信じるときに、人生の土台が確立します。「いま、ここで」それは実現したとイエス様は強調したのです。そこには人間の努力や業績や、宗教的熱心さが入る余地はありません。神の無条件の愛の福音だからです。ただ、イエス様の故郷のナザレでは信じない人も多かったようです。神の言葉を聞いて信じなかったので、リニューアルされなかったのです。
しかし、わたしたちはルターが言ったように、「わたしはあなたの神である、という言葉が、礼拝について語りうるあらゆるものの基準である。」と信じたいと思います。
いや、すでに信じさせていただいているのです。それは、自分の力によるのではありません。こうして、神のみ言葉に触れている事自体が、「神によるトータル・リニューアル」だからです。旧約聖書にも「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、額に着け、子供たちにも教えなさい」(申命記11:18)とあります。この神の言葉の上に建てられるのが、人生の試練、困難にも決して倒れない家です。古い自分は外見だけの弱い存在です。
神の言葉を素直に受け入れ、アーメンと祈ることが霊的な礼拝であり、それは神との一致を生み出し、神の実である愛の実践に導くのです。そこでは、人間の敬虔さや熱心さはまったく関係ありません。むしろ、逆です。普段は何も出来ていない人間が、神の言葉に触れて、アーメンと答えることこそが霊的なのです。教会堂での礼拝を何百回繰り返しても、それが霊的なものでなければ、実を結びません。コロナ禍で集会としての礼拝に出られなくても、耐震性の低い鉄筋で構成された外見だけの自分自身の姿に気づき、これに死んで、イエス様の十字架の贖いを信じ、感謝のアーメンを唱えるならば、復活の命による「神のトータル・リニューアル」を受け、強制ではなく喜びに満ちた愛の実践が始まるのです。ですから、いつまでも古いものに拘泥してはいけないと思います。