印西インターネット教会

説教「倒れない家に住みたい」

「倒れない家に住みたい」     マタイ7:15-29 聖霊降臨後第3主日

旧約聖書には預言者がよく登場しますが、新約聖書の時代にも預言者がいました。神の言葉を取り次いでいるようではあったのですが、本当のところは彼らがどんな人物なのかはわかりませんでした。イエス様にはすぐにわかったようです。イエス様の判断力は神が与えたものだったからです。そこで、弟子たちに本当の預言者と偽預言者の見分け方を教えています。偽預言者でも外側は羊であるという事は、羊がそうであるように無害に見えるということでしょう。優しくそうで言葉遣いも丁寧なのかもしれません。勿論、神の言葉を語ります。ところが内側は羊ではなく、強欲な狼なのです。困りますね。だって、わたしたちには判断できないのですから。赤ずきんちゃんの話のように、お腹を割って調べることもできません。ただ、強欲な狼が登場するこのストーリーなどもここからインスピレーションを得たのでしょう。人間でも狼のように人間を食い殺すようなものがいるというのです。恐ろしいことです。しかし、それは外見からはわからないから問題です。イエス様は、その実でわかると言います。ギリシア語で「実」とはカルポスという言葉です。これは植物の実だけでなく、外に現れた行為や行動を意味します。イエス様は、人を外見の美しさや柔和さ、穏やかさで判断しないように教えました。また、わたしたちはイエス様と違って行動だけ見ていても、なかなか判断できません。では、本当の実とは何でしょうか。ヨハネ福音書15章:4節に、「あなたがたは、わたしにつながっていなければ実を結ぶことはできない」とあります。実とはイエス様の働きのことです。また、ガラテヤ書5章22節には「霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と書いてあります。これが実です。そして、パウロは諦めずに励んでいると、いつかかならずイエス様のもたらす実を収穫できると教えています。

イエス様に結びついている、という事は礼拝していることでしょう。では、礼拝は良い実の保証になっているのでしょうか。問題は、礼拝でイエス様という木に結びついているかどうかです。イエス様は言葉の問題ではないと教えました。要するに「主よ、主よ」と礼拝で言ってみても、讃美歌で歌ってみても、神さまの御心を行っていなければ実を結べないのです。実を結んでないことは、わたしたち自身が一番よく分かるでしょう。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という実がなく、逆に「肉の業、人の欲」が争いや不平不満を生みだしているのです。つまり、聖書が言いたいことは強欲な狼とは、物語上の仮想現実ではなく、まさにわたしたち生まれつきの人間が、強欲な狼だという事です。心の中に、感謝ではなく、不平不満が満ちていたら、それはその人の努力が足りないのではありません。努力はしているはずです。むしろ、努力がブレーキになって圧力をかけているかもしれません。自分はこんなに努力しているのに結果が出ないと怒っているかもしれません。つまり、生まれつきの自分が死んでいないわけです。聖書では、こうした生の存在をサルクス(肉という意味)と呼んでいます。先に述べた、良い実を結ぶのは人間努力ではありません。むしろ反対です。自分には何もできない。このイエス様のブドウの木に結び付けていただかなければ何もできない。生きることもできない。自分は死んでいる。この自覚が大切です。ですから、こうした自覚のない者にたいして、イエス様は「あなたたちのことは知らない」つまり、あなたとわたしとは何の関係もないと指摘したのです。真の礼拝は、礼拝堂で首を垂れるだけでなく、わたしたちの無力を自覚し、わたしたちのすべてを神に捧げ、清められ、罪赦され、再び自己を神から受けとることです。一種のリニューアルです。イエス様が、サマリアの女に「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。(中略)神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ福音書4章23節以下参照)だから、偽預言者のように、狼のように自己中心、欲望中心で、真理に基づかず、イエス様に結びつかない生き方をしてはいけないと諭したのです。

わたしたちは、イエス様の教えに従って誤った教えを「警戒」しなければいけないと思います。黙示録にも書いてあります。教会がイエス・キリストの教会であるためには、自分を立派だと思わず、「自分がみじめな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることを」(黙示録3章17節)悟りなさいというのです。不思議なことに、「自分がみじめな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることを」悟ると、逆に神から力が与えられるのです。偽預言者はイエス様の名前を利用して奇跡を起こしていただけであって、「自分がみじめな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることを」本当の意味では知らなかったのです。重い病気になった者が信者になることがありますが、それは「自分がみじめな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることを」痛いほど自覚するからでしょう。わたし自身も若いころは、神仏に頼る人を薄っぺらな人間として嫌悪感を抱いていましたが、社会主義者としての活動に挫折し、「自分がみじめな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることを」知った時に、アメイジング・グレイスの路に入ることができたのです。ちなみに、アメイジング・グレイスの作詞をしたジョン・ニュートン牧師の伝記を読まれると、わたしの言いたいことがわかると思います。

そこで、イエス様は建物の喩を語りました。イエス様自身が大工さんでしたから、どんな建物が災害に強く、どんな建物が弱いかを知っていたのは確実です。それにイスラエルという国は活断層の上にあって地震も少なくないのです。おそらく聴衆たちもこの喩は身近な例なので納得できたでしょう。イエス様の言葉を信じ行うことが土台です。イエス様が人を裁くなと教えたら、裁かないことです。それが土台です。イエス様が思い悩んではいけないと教えたら、本当にそうだと信じ、あとは悩まないことです。天に宝を積みなさいと聞いたら、地上の物への執着を捨てることです。そして、イエス様が求めなさい、そうすれば与えられると教えたら、なりふり構わず本気で求め続けることです。それがイエス様の言葉を行う事です。信仰と実践です。真理です。

イエス様を信じるのではなく自分を信じる場合が多くあります。その一例が覚せい剤です。ヤクザをやめて牧師になった金沢泰弘牧師が覚せい剤の問題を書いています。「わたしにしても、彼にしても、誰もが初めて覚せい剤に手を出した時、その強烈な効き目に驚き、酔いしれると同時に、こんなもんやめようと思えばいつでもやめられるわいと、高をくくっていた。人間は愚かなものです。何も薬物に限らず、酒、タバコ、ギャンブルと、深みにはまっていき、最悪の場合自殺に追い込まれてしまう場合も少なくないのは皆さんもよくご存知でしょう。」つまり、自分を信じ、自分の事は自分でコントロールできると思い込んでいるから間違うのです。

まさに、これが、外側が強そうでも、危険に弱い砂の上に建てた建物なのです。千葉県にはその例が多いようです。姉歯建設の耐震構造が不完全な建物も千葉県印西市の近くにありました。わたしも実際に見たことがあります。また、千葉県の幕張というと、幕張メッセなどがあって、外観は整備された未来都市で、東京湾に隣接する砂浜も広がっています。そこにはきれいな高層ホテルが立ち並んでいて、結婚式などに人気があります。わたしも一度、頼まれて、高層ホテルの最上階での結婚式を司式したことがあります。そこで係員から聞いた話ですが、ある牧師さんが、結婚する2人の築く家庭は砂の上に建てた建物の様であってはいけない、と説教したそうです。式は無事に終わったのですが、あとでその牧師さんにホテル側からあの話はやめてほしいとクレームが来たそうです。実は、そのホテルはまさに砂の上に建てられたものだったからです(笑)。その後、東日本大震災が起きた時に幕張の近くの浦安というところで、やはり砂の上に建てた町が液状化現象に遭うという災害がありました。牧師さんの話はそれより10年以上前のことですが、真実だったわけです。

では、わたしたちの生活地盤はどうでしょうか。自分の考え、周囲の人の意見、これは実に弱い基礎です。これを信じるのではなくイエス様を信じることが確かな土台です。旧約聖書の日課にも「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、額に着け、子供たちにも教えなさい」(申命記11章18節)とあります。ここに建てられるのが、神がわたしたちに用意してくださる御国の家、倒れない家です。この家こそ、礼拝において与えられるギフトです。イエス様を信じること、それはイエス様に結びつくことであって、奇跡や慈善や癒しなどの行いには関係なく、罪ある行いも関係なky、わたしたちの行動が良いとか悪いとかの問題でもありません。つまり、わたしたちが中心ではいけない。礼拝において、むしろ自分に死んでしまうこと。そして、イエス様に結びつくこと、自分の信仰を捨て神の与える未知の世界へと移行すること、これこそ神だけが建てる倒れない家です。

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