死についての考察2
ある緩和ケアの専門家がユーチューブで人が死んでいくときの7つの徴候について話しています。彼は仕事柄、2千人以上の人の最後をみとったそうです。わたしも以前にホスピスのチャプレンをちないかというお誘いを受けたことがありました。住宅が無料で提供され、月給が50万円という好条件でしたが、常に死に立ち会うという精神的に困難な仕事でしたので、自分には無理だと思いお断りしました。これは他の医療の分野でも同じです。どうしても病人の死に直面しなければなりません。わたしも、アラスカ州の一般病院でチャプレンとして働いていた時に、医療関係者から聞いたことがいまだに心に残っています。それは、病人に対して誠意を尽くし、自分の家族のように思いを込めて治療すると、その死後に自分の精神にダメージを受けるそうです。喪失感や挫折感でしょう。だから、患者は名前ではなく病名で呼ばれる場合が多くあります。人間的な感情移入を防ぐためです。であるとすると、前記の二千人以上をみとったという緩和ケアの専門家は強靭な精神力を持っているか、あるいは人の死に関してある程度無感覚でいられる人なのでしょう。心に自分を防御する透明な幕を張っているわけです。その彼が経験上感じた死の7つの徴候とはこれです。1,意識が低下してくること。2.身の置き場のなさをしめすこと。3.人、時間、場所などにたいする見当識障害を示すこと。4.呼吸に変化が生じ,下顎呼吸などになること。6.声を出すのが困難になること。そして最後の7番目として、体の感覚が低下することです。このようにして最後を迎え、呼吸や心臓が止まっても、これが死だというポイントを指摘するのは難しいそうです。旧約聖書には、ある人物の興味深いさいごについての記述があります。エノクです。「エノクは神と共に歩み、神がとられたのでいなくなった。」(創世記5章24節)神から命を受け、神と共に歩み、神のもとに帰ったということでしょうか。そんな人生を送れたら感謝ですね。ただ、注意しなければならないのは、「神と共にあゆみ」という部分です。これは律法主義的に、「清く正しく生きる」という意味ではありません。詳細はヨブ記に書かれています。実際はその逆です。自分の無力さ、罪深さ、愛の欠如を自覚し、神の赦しと御恩寵を信頼して、ルターが言ったように「神の乞食」として腰を低くして生きることなのです。あのように偉大な働きをしたザビエルでさえ、神の前に謙虚な人だったのでしょう。死体が朽ちなかったというのは「神がとられた」からだったのかも知れません。