聖書研究

悩みの時に神の慰めと栄光があることを聖書から学ぶ

使徒言行録20章1節-16節  文責 中川俊介

エフェソでのパウロたちへの迫害の試みは、町の書記官が介入して群衆を解散させたので、一時は中断されました。パウロは迫害に怖気づくことはありませんでした。「福音の宣べ伝えられるところ、どこにでもこのような反対と迫害があることを、ここでも教えられます。」[1](第二テモテ3:12参照)今後も同じような反対が起ることを覚悟の上、パウロは1節にあるようにエフェソに残る者たちを励まし、海を渡ってマケドニア地方に行こうとしました。自分も困難の中に生きていたのですが、パウロは牧会者としての姿勢を常に持っていました。ルターが、全信徒祭司制を提唱したのは階級としての祭司ではなく、このような励ましを与える役割をすべての信徒が担う必要を感じていたからでしょう。そういうルターも、町に疫病が流行した際に、そこを退避するように知人がすすめたにもかかわらず、「自分には病人を慰め助け、死者を葬る職務があるので町を離れることはできない」と言ったと伝えられます。これは牧会者、つまり祭司としてのルターの姿を彷彿させるものです。パウロのマケドニア行きの理由については、すでに、そちらからの情報が届いていたからだと思われます。「パウロはこのころコリント教会の問題で、非常に苦しんでいました。」[2](第二コリント7:5参照)パウロがエフェソにいた3年間にコリントではさまざまな問題が起こっていました。ですから、パウロは自分の好みや利害ではなく、神が自分を必要とされている場所に赴いたわけです。そのマケドニアでの働きは2節に書かれているように、そちらの信徒を「励ます」ことでした。ですから、この時期に、パウロはローマ信徒への手紙、コリント信徒への手紙などを書き、これが後世に残ったのです。まさに悩みの時が、神の栄光と慰めが示される時なのです。このことを現代の教会でも覚える必要があるでしょう。また、マケドニアへの旅でパウロは馬車や馬などは使わず、徒歩であらゆる場所をまわって人々を励ましたのです。これはパウロが当時のローマ帝国東部の公用語であったギリシア語を自由に扱う国際人だったからできたことであり、ガリラヤ出身のペトロたちの仲間にはたぶん難しいことだったでしょう。神は必要な才能を備えてくださるものです。

パウロはギリシア、つまりアテネやコリントで三か月を過ごしました。「当時パウロは、ローマ人への手紙を書いたから、この時期は、とりわけ私たちにとって重要となる。」[3] こうした短い滞在の事が記載されているのにはそれなりの理由があるのでしょう。荒れ果てた教会の体制を祈りと苦悩の内に立て直したのです。ルカはこの辺を詳しく書いていませんが、パウロ自身がそれを手紙の中で述べています。「ギリシアでパウロが過ごした三か月は紀元56年から57年に及ぶ冬の期間であった。」[4] さて、その働きを終えて、3節にあるように、パウロはそこからアンティオキアのあるシリア州へ船出しようとしていました。しかし、彼に反対するユダヤ人の陰謀を避けるために陸路でマケドニアを通ってシリア州に行くことに決めました。「ユダヤ教の過越祭をエルサレムで迎えるために多くのユダヤ教徒が船でエルサレムへ向かったようです。それは、パウロにとっては危険なことでした。人は、パウロがどの船で旅行するのか察知し、途中で彼を殺そうとねらっていた。」[5] それまで、ユダヤ人の迫害を恐れたことのなかったパウロですが、なにかの理由があったので予定を変更したのでしょう。そこで、陸路を行った際のメンバーの名前が列挙されています。全部で7名です。彼らは異邦人のクリスチャン指導者たちでした。これに記者のルカとリーダーのパウロを入れると9名という事になります。弟子たちの出身地をみますと、かなり広範囲に及んでいて、パウロの伝道の実りが各地にもたらされていたことがわかります。彼らはその地方の教会の代表者であり、エルサレム教会のために集めた献金を運ぶ任務を持っていたと考えられています。この際に、彼らはパウロの護衛として同行したわけではなく、先にエーゲ海を渡ってトロアスについていたようです。この船旅は5日間かかりました。約200キロの海路でした。その海域には島が点在するので、港に立ち寄りながら航海したのでしょう。一日平均移動距離は40キロ程度です。しかし、もし陸路を行けば、その三倍以上の日数を要したものと思われます。先に出発した弟子たちとはトロアスで落ち合い、そこに彼らは7日間滞在しました。

パウロはユダヤ人のお祭りである除酵祭(過越祭)を祝ってからフィリピを船出しました。彼は異邦人にはユダヤ人の宗教伝統を押し付けることはありませんでしたが、自分自身は古くからのしきたりを守っていたことがわかります。わたしたちが、日本のような異教の土地で伝道する際に、自分の信念と他者の信念との共存が必要です。宗教に限らず、自他相異なる生活習慣の中で和をもって共生するには何が大切なのかを考えてみましょう。

7節からは、旅行の途中の様子が描かれています。パウロたちは週の初めの日、つまり日曜日に聖餐式を行おうとして集まりました。既に礼拝日がユダヤ教の土曜日から、日曜日に移りつつあったことがわかる部分です。ちなみに、ユダヤ式の礼拝や儀式は夕方から始まります。創世記に、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)と書かれているとおり、一日の始まりは夕べだからです。この形式を踏襲していたのか、あるいは仕事が終わってから集まったのかもしれません。それほど律法的な制約はなかったと思われます。そこで、パウロは聖餐式を執行するだけでなく、集まった者たちに聖書のメッセージを熱心に伝えていました。その翌日は旅行の出発日ですので、普通なら、早く床について明日に備える場面です。しかし、集まった人々を見て、パウロはどうしても福音を伝えたかったのでしょう。彼の価値観を知ることが出来ます。体力の温存か、旅の予定か、福音かと比較してみた場合に、その優先順位はパウロの場合にはまず福音でした。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは何をもって人生の一大事と考えているでしょうか。

8節を見ると、筆者ルカ自身の実感が肉筆で伝わって来るかのようです。二階の部屋には多くの灯があって、当時の人々には真昼のように感じられたかもしれません。教会が経済的にもしっかりしていた証しでしょう。また、夜の集会にはいかがわしいものも多かったようですが、ルカはキリスト教の集会が神々しいものだったと示しているのでしょう。その時に、窓枠に腰かけてパウロの話を聞いていたエウティコという青年が眠気を催し、ふらついて階下に落ちてしまいました。「ここでは青年と書かれているが、当時の習慣では8歳から14歳ぐらいの者をさす言葉であった。」[6] 部屋には人が多くいてほかに座る所がなかったのでしょう。当時の建物は今のようには高くはないとしても、3階から落ちることは大変なことです。それも、後ろ向きに落ちてしまったのですから自分を守ることもできません。人々が降りて行って様子を見ると、ほぼ、即死状態でした。

10節には、パウロが集会を中断して階下に行ったことが書かれています。パウロは彼が生きていると言いました。人々は彼が死んだと判断したのですが、パウロは青年を抱きかかえ、祈り、そこに微弱ながら生命のしるしを感じ、「生きている」と叫んだのでしょう。つまり、死者を生き返らせたのです。「パウロは祈りつつそれをしたのです。それは昔エリヤやエリシャがしたのと同じです。」[7] そして、何事もなかったかのように、集会を再開し、夜明けまで語り続けて、そのまま旅に出ました。これは、奇跡とも言える出来事ですが、ルカは敢えて奇跡とは強調しませんし、パウロが祈って青年を甦らせたとも言いません。「ただ、ルカはパウロが青年を抱き上げた時に生命が戻ったということを読者に理解させようとしているのであろう。」[8] それは、とても不思議な出来事でした。それは、多くの目撃者がいた出来事でもありました。神がパウロに与えた生命の力、癒しの力が発揮されたともいえます。「この死からーいのちという信仰こそ、パウロをいつも支えていたものにほかなりません。」[9] 人々はこの事によって大きな慰めを受けたと、ルカは記述しているだけです。余談ですが、教会の礼拝中に居眠りをする人に関して、ある牧師は、「それほど疲れているのに教会に来てくれたという事を、愛と思いやりをもって見るべきである」と言っています。そうした信仰理解が欠けると、教会は裁きの場になりやすいものです。他には何を注意したらよいでしょうか。皆で愛と思いありのある教会を形成するために必要なことを考えてみましょう。

13節から場面は変わります。ルカたちの一行はトロアスからそれほど遠くないアソスという町へ船出しました。そこで、陸路を来るパウロと合流するためです。おそらく、陸路でも20キロ程度の距離だったと思います。ここで、何故パウロが陸路をとったのかは不明です。途中で立ち寄るべき信徒の群れがあったのかもしれません。そして、そのことはパウロの指示によるものだったと書いてあります。ルカはパウロに同行しませんでしたから、トロアスからの陸路でどんな出来事があったのかは書かれていません。彼らはアソスで合流し、その後対岸の島にある町、ミティレネに行きました。それは、伝道の為ではなく、船の巡航ルートだったようです。それから、キオス島を過ぎ、サモス島まで100キロ以上を進み、3日目には200キロ先のミレトスに到着しています。先の船旅で、フィリピからトロアスまでの200キロを航海するのに5日間を要していたことを考えると、この時は北風の影響でしょうか、驚くほどの速さで南下したことになります。この記録を見ても筆者のルカが注意深く伝道の記録を残していたことがわかります。そうした過去からの使信をわたしたちが読めることは本当に幸いです。

16節以下には、この旅行の目的が書かれています。少し前に書いてあったように、パウロは除酵祭(過越祭)が終わるまでフィリピに滞在しましたが、その後、海路5日、トロアス滞在7日、トロアスからミレトスまでが4日程度かかっていますので、もうすでに除酵祭から20日以上過ぎています。その後、30日くらいで五旬祭ですが、それまでに千キロ以上離れたエルサレムに着こうとしていたわけです。ですから、ルカが書いているように、パウロにとってはアジア州で時間を過ごす余裕はなかったのです。エフェソにも行きたかったのでしょうが、そうすると大勢の人に会う必要がありますし、また暴動などがあると、予定通り五旬祭までにエルサレムに着くという事は出来なくなってしまうのです。「エフェソでの暴動は、ルカが認知した以上に厳しいものであったとも考えられる。」[10]そこで、パウロが考えたのはエフェソの教会の指導者たちに、50キロほど離れたミレトスの港まで来てもらってそこで別れを告げるということでした。パウロが再びエフェソに立ち寄る予定があるならば、そんな必要もなかったはずです。ですから、パウロにとってのエルサレムに向かう旅は、人生最後の旅だという気持ちがあったのでしょう。実際にその通りになったのですが、パウロは喜んで主の示した道を進んでいったことをルカは克明に記録しています。わたしたちの進むべき道も、実は、主によって既に定められているのです。

[1] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、264頁

[2] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、281頁

[3]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、257頁

[4] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、405頁

[5]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、258頁

[6] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、326頁

[7] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、277頁

[8] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、408頁

[9] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、282頁

[10] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、187頁

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