今週の説教

疫病さえ恐れなかったルターが恐れたものについて学ぶ説教

「誰を恐れるべきか」  マタイ10:16-33

この部分は、迫害を受ける宣教者に対する慰め深い言葉だとされている箇所です。ヨハネ福音書16:33には、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」とあります。イエス様は弟子たちを狼の中に羊として送り出すと言いました。これは一見すると残酷な話です。狼はまさに無力な動物を獲物として求めているわけです。ですから、これは空腹のライオンの前に肉の塊を置くようなもので、致命的な誤りのように感じます。なぜなら福音というのは神の愛であり、与えること、人に親切にすることが中心ですから、どうしても、この世の欲とか嫉妬の犠牲になりやすいものです。しかし、話はそこで終わりません。イエス様の言葉には「しかしながら」という接続詞が入っています。つまり、あなた方を送り出す先は非常に危険な場所だ、「しかしながら」蛇のように思慮深く、慎重になりなさい、また、鳩のように柔和で純真なものになりなさいとイエス様は命じました。蛇は昔から知恵の象徴です。蛇は危険を察知してすぐに逃げます。初代クリスチャンたちも逃げに逃げて、逃げた先で福音を伝えました。結局、世界の果てまで福音宣教することになったのです。また、鳩のように純真とは、単純に神の言葉を信じて伝えなさいということです。愛そうとして憎まれても、愛することをやめないのが鳩の生き方です。

そして、注意しなさいとイエス様はいいます。なぜなら狼とは動物の事ではなく、弟子たちを処刑者等に引き渡す無慈悲な者たちの事だったからです。この狼と呼ばれる人々は、家庭では普通の親だったりするでしょう。何かが彼らを狂暴な狼に変えてしまったのです。その、何かとは何でしょうか。聖書に、「神に逆らう者の欲望は悪に注がれ、その目は隣人をも憐れまない」(箴言21:10)と書いてあるとおりです。彼らは、弟子たちを杭に縛り付けて鞭で打つと原典には書かれています。これも狂暴な処置であるといえます。

そして、宣教者である弟子たちは権威者とか王の前に引き出されるのです。そこで、イエス様は弟子たちに安心感を与えます。何を言ったらよいのか、どのように言ったらいいのかと心配しなくて良いというのです。その時に適切な言葉が与えられるのです。なぜなら、それはもはや弟子たちの言葉ではなく、父なる神の聖霊が、弟子を通して語るからだというのです。

その時の状況は悲惨なものです。兄弟が兄弟を死に追いやり。親が子を死に追いやり。子供が親を死に追いやるというのです。人間関係の徹底的な破壊です。そして、弟子たちはイエス様のために人々から憎しまれるのです。つまり、普通の人々が狼や鬼のようなむごい人々に変身するのは、特定の理由ではなく、イエス様の名前のためだというのです。ここで、名前とは、イエス様の権能、地位、力をあらわす意味を持っています。イエス様の権能、地位、力に対抗する狼たちの姿勢は、神に反対する人間的な権能、人間的な地位、人間的な力を守ろうとするものです。こういう例は旧約聖書に多く見られます。紀元前850年に亡くなったイスラエル王アハブには400人の預言者がいましたが、彼らは王の地位を守ることしか預言しませんでした。ただ一人だけ、ミカヤという預言者がいました。彼に関して、「彼はわたしに幸運を預言することがなく、いつも災いばかり預言するのでわたしは彼を憎んでいます。」(歴代誌下18:7)、と書かれています。イスラエル王アハブ人間的な力で権力を守ろうとしていたのです。そして彼は、ユダの王ヨシャファトと共に戦いに出ますが、自分は変装して敵に狙われないようにして出たのです。案の定、ユダの王は敵の集中砲火を浴びましたが、神に祈って助けられました。変装していたイスラエル王アハブは流れて飛んできた矢に当たって、まさにミカヤが預言した通りに死んでしまったのです。イエス様は、こうした故事をよく知っていました。ですから、人間的な迫害とか裁判を恐れていなかったのです。真に恐れるべきは神以外にないことを預言者のミカヤも知っていました。

そして、イエス様は繰り返して王や権力者を恐れないように告げます。ルターはまさにローマ法王さえ恐れませんでした。体を殺すことができる者を恐れるのではなく、魂を殺すことのできる者、すなわち神ご自身を恐れなさいとイエス様は教えたのです。空の鳥さえ神の御心がなくては地に落ちない。雀は一番安い犠牲の供え物として、1羽300円くらいの値段で売られていました。ただ、そんな雀でさえ、神のみ心がなければ空から落ちない。これは雀しか買えない貧しい人々の慰めだったことでしょう。あなたはそれらの小さな生命体の存在以上に神のご配慮、神の愛をいただいている。災難と迫害も、神はご存知である、だから耐えられないような試練はない。だから恐れる必要はない。髪の毛の数さえも神には知られている。神の配慮は髪の毛よりも細かい。だから、心配いらない。神は御子イエス・キリストの宣教者を守って下さる。

イエス様が十字架にかけられたときも、まわりが敵ばかりであって、四面楚歌とも言える状況でした。ですから、弟子たちに、彼らのまわりが敵ばかりになって、弱く苦しい立場に追い込まれると教えたのです。そうした、四面楚歌状態において、イエス様は心配しないように教えました。恐れるべき方を恐れていたらよいのです。預言者ミカヤも王からの脅迫を恐れず、王の最後を預言しました。それはつまり、わたしたちが弱くて、偽りの預言者が400人で圧迫し、自分がたった一人だしても、何をなすべきかは、不思議な聖霊の働きが示してくれるから、絶望する必要はないというのです。

イエス様は、ここで、困難ばかり見てはいけない。その困難が自分を鍛え、忍耐力を養い、神への希望を生んでいくという素晴らしい面があることを忘れてはいけないと教えていると思います。いわば十字架があるからこそ、神の愛が豊かに降り注ぐのです。

そんな困難なときに、自分が弱まり、自分を捨てる覚悟ができたときには、神の霊が自分を通して語り始めるのです。旧約聖書の日課、エレミヤ書20:9で、偉大な預言者となったエレミヤが最初は神の言葉のゆえに「恥とそしりを受けた」のです。だからそれを逃げようとしても神に捉えられ、「わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と語って迫害のなかに出て行って神の言葉を伝えたのです。それは彼が弱くなったから神の器になって聖霊を通して語ったのです。信仰とは強くなることではなく弱くなることです。パウロも、わたしは弱い時に強いと言います。ですから、礼拝でも「主よ憐み給え」と唱えるのです。十字架の救いは弱さの救いです。あのイスラエル王アハブと共に戦いに出たユダの王ヨシャファトは生き残りましたが、ほかの戦いでも大軍に包囲されました。そのとき「この大軍にたいして無力であり、ただあなたを仰ぐことしかできません」と祈りました。彼は弱さの中で神に助けを呼び求めて勝利したのです。一方、変装という姑息な策略で自分を守ろうとしたイスラエル王アハブは流れ矢にあたって死んだのです。彼も信仰を持っていたでしょうが、それは弱さに基づくものではなく、400人のニセ預言者の人間的意見に支えられたものでした。

宣教者、福音を伝えるすべての弟子は人を恐れず、畏怖の念をもって敬愛すべき神に従いなさい。そして、行って神の素晴らしさと愛を伝えなさいと命じられているのです。「世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と書いてある通りです。

-今週の説教