印西インターネット教会

人生の優先順位に迷ったときに読む説教

「愛の優先順位」    マタイ10:34-42

イエス様は愛の人でした。人々の苦しみを解決し、弱った人を助けました。多くの人々はイエス様を歓迎しました。しかし、愛のために争いがうまれたこともありました。何故かと言うと、イエス様の言葉と行動は、それまでの社会秩序に安住していた人々の反感をうみだしたからです。例えば、神さまはすべての階級の人を等しく愛してくださるよという教えは、現代の平等意識からは当然ですが、昔の社会では大変な反発を生み出したものです。神に従うことは、時にはこの世の暗黙の了解を破壊するのです。日本では、森永製菓の初代社長がクリスチャンとして、全ての人に喜んでもらうために、上げ底のないお菓子箱を使って洋菓子を販売しました。しかしそれは、それまで上げ底のお菓子で利益を得ていたお菓子の同業者からやり玉にあげられたそうです。おかしいですね。それまでの儲けのための暗黙の了解が破られたからです。イエス様は、神への信仰ではなく自分たちの習慣とかしきたりに固執していた人々との論争を恐れませんでした。ルカ福音書11章37節以下を見ますと、自分は正しいと思っているファリサイ派の人に、あなたたちは外側をきれいにするが、内側は悪意に満ちているとイエス様はいいました。近くでそれを聞いていた律法学者の一人も怒って「それはわたしたちをも侮辱することになります」と言いました。するとイエス様は「あなたたちも人に重荷を負わせているが自分では指一本も重荷に触れようともしない」と批判しました。そこで人々はイエス様に激しい敵意を持ったと書いてあります。自分たちの痛いところを指摘されたからですね。イエス様は人々を愛し、この世が嘘とか偽善から救われるために、真実を語ったのですが、その言葉を憎む人も出てきました。ですから、そうした人間の心情を熟知していたイエス様は、愛を第一にするときには、34節にあるように、親と子が敵対する場合もあると教えたのです。

ある神学者は「罪の世に義が臨むとき、そこに戦いがおこるのは、当然のことだろう」と述べています。正しいことを言えば称賛されるのではなく、むしろ批判されるのです。義とは正義であり、イエス様の投ずる剣なのです。それは、神の御言葉の、霊的な剣でもあります。悪を放置せず、明るみに出すはたらきなのです。歴史を見てみると、権力者の隠蔽された悪行も、時間の経過とともに暴露されていきます。そして、聖書が教える霊というのは外側をきれいに見せている社会の中で、内側の醜さを露見させる神の働きです。新約聖書では人に良く思われようとして、献金額を多く見せた人が霊によってショックをうけて死んでしまったことが使徒言行録5章に書かれています。それは霊によって罪の自覚が生みだされたからです。また、時には、地上でわたしたちが第一に優先する、最も親しい親子関係も、霊の働きによって引き裂かれることがあります。霊が第一なのか、この世の関係が第一なのかという優先順位の問題が生まれるのです。

親子の対立は旧約聖書にも書いてあります。サムエル記下15章でダビデ王の息子アブサロムが40歳になった時にヘブロンで王の宣言をおこない父親を討伐しようとしました。結局アブサロムは自分の不注意で木にかかって死んでしまいました。日本の戦国時代にも伊達正宗の母親、義姫が弟のほうを可愛がり、政宗を毒殺しようとした例があります。ここに見られる家族の問題点は、自分の考えや利益を優先しようとする自己中心的な態度です。この罪は、原罪によるものですから誰にでもあります。イエス様は、こうした人間と家存在の根にある罪の問題を見据えていました。そして、親子愛や兄弟愛の方を優先し、イエス様に対する愛、つまり神への愛より上位に置く者は、弟子として相応しくないと言われたのです。もっともなことです。ただ、わたしたちがその場にいたら迷うことでしょう。特にユダヤ人にとって親子の愛は単なる家族愛ではなく、信仰共同体の愛でもありました。家庭は、そこで宗教儀式が行われ、信仰が育まれる場所だったのです。ただそれは本物の信仰だったのでしょうか。イエス様の登場によって、この偽物の信仰社会の基盤に亀裂がはいりました。小さな宗教改革です。ただこれは、ミカ書7:6に「人の敵はその家の者だ」と書いてあり、すでに預言されていたことです。エレミヤ書28:15にエレミヤの真意が告げられています。エレミヤは偽りの預言者ハナンヤに対して、「お前はこの民を安心させようとしているがそれは偽りだ」と言っています。勇気ある人でしたね。それも、彼の勇気ではなく、神の霊に促されていたから言えたのでしょう。人を単に安心させる宗教は本物ではありません。そこには罪の悔い改めがないからです。現代の日本のキリスト教は、教会員に忖度するだけの傾向が強くなっています。献金してくれる人を失いたくないからです。これは教会の資本主義化です。これも現代に新たな宗教改革が必要な理由です。

家族もそうですが、神の愛を基盤としていない人間関係を、絶対視してはいけないのです。人間関係とは有限なものです。ただし、心理学者のアドラーなどは、ほとんどの悩みは人間関係から生じると述べています。それは、人間関係自体が悪いのではなく、優先順位に問題があるからです。もし、家族を最優先順位に於いて、神を見ようとしないならば、わたしの弟子たり得ないとイエス様は教えたのでしょう。ルターも書簡の中で、カトリックからプロテスタントに改宗しようか悩んでいる青年に、優先順位の問題を教えています。さて、37節では、イエス様以上にこの世のものを愛してはいけないと教えられています。それは神を第一とすることにほかなりません。愛することは、普通なら自分はそのまま変わらずに、対象に尽くすことです。しかし、聖書の愛は、捧げる愛です。自分が変わる愛です。自分を手放す愛です。それは十字架の愛なのです。自己否定そして十字架がキリスト教の神学の中心です。ルターは「神はわたしたちを、わたしたちの中にある義と知恵によってではなく、わたしたちの外にある義と知恵によって救おうとしておられる」と書いています。これは大切な点ですので、よく理解してほしいですね。自分が頑張って無理して自己犠牲する苦行のようなものと、キリスト教は関係ありません。(しかし、中世では誤った教えが流行していました。)本当のことを言うと、究極の自己否定は自分からではなく、外におられる神から来るのです。それは、神の絶対的肯定、無条件の愛の中に、否定の否定として隠され、秘められている奥義なのです。なぜなら、自己否定、弟子への道、義の道は、苦難を選び取る道ではなく、原罪にドップリ浸かった自分さえ愛してやまない神の絶対的愛に触れた時に生じる、豊かな恵みの道だったのです。

39節に、弟子たる者は自分の命を守ることに汲々としてはいけないと書いてあります。自分の命さえ手放す覚悟がなくてはいけないのです。町から町へ逃げる場合にも同じです。捨てなければ逃げられません。人間は滅びてはならないわけです。特に「自分の義」を捨てる時に、人は生かされ、本当の意味で自由になるのです。これを詳しく知りたい方は、一休さんの伝記などを読まれるといいでしょう。彼はどんなに批判されても、そうした人間の悪意に振り回されない自由を持っていました。ですから、わたしたちも本当に生かされ、喜びと感謝に溢れなければいけないというのが、イエス様の願いだったわけです。これを考えつくイエス様ってスゴイ人だったわけですね。

40節では派遣先での準備について語られています。イエス様の励ましです。イエス様に使わされることは何と光栄であり喜び多いことでしょうか。使わされているというのは愛されている証拠です。もはや、自分勝手な人生は存在しないのです。昔の宗教改革後のドイツで、職業のことをベルーフ(神に呼び出された働き)と呼んだのも同じことでしょう。わたしたちは天の父の愛と平和の大使として呼び出されているのです。自国にいるのではなく、外国にいるのです。何故外国なのか、それは、わたしたちが神の愛と赦しを受け入れない原罪に浸かり切った人々に囲まれているからです。クリスチャンというのは、どこまでも異邦人なのです。本国は、はるか遠くの空の上にあるのです。つまり、弟子たちの働きは、預言者、エレミヤ、ミカたちとおなじであると考えていいのです。そして弟子たちの後ろには、真理の霊があり、彼らは絶大な権威を託された大使であり、恵みの運び手だったのです。そういうことは、過去の出来事ではなく、現代に生きるわたし自身も、イエス様のベルーフを受け、愛を感じ、印西インターネット教会を通して、イエス様の教えのすばらしさを伝えているのです。

 

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