今週の説教

これを知ったら明日からの生活が明るくなるという読む説教

「本気で求めていますか?」    ルカ11:1-13

今回の福音書の日課では、イエス様の弟子たちがイエス様にどのように祈るべきなのかを尋ねています。これは、奇妙な事です。ユダヤ人の習慣を知っている人なら、彼らがセドールというユダヤ人の祈祷書を使って毎日お祈りしていることを知っているからです。弟子たちはこの祈祷書の祈りには満足しなかったのでしょうか。イエス様が祈っていたような自由祈祷にあこがれたのでしょうか。

同じルカ福音書を見ますと、9:46では弟子たちは誰が一番偉いかを議論しています。9:54ではイエス様を歓迎しないサマリアの村人を、弟子たちは神の力で滅ぼそうとしています。これはちょっと尊大な態度ですね。また、あるとき弟子たちが伝道から帰ってくると、(10:17に書いてあるのですが)イエス様の名前を使って悪霊を屈伏させたと喜んでいます。ですから、ここでルカの福音書が伝えたかったのは当時の弟子たちの信仰の浅さだったことがわかります。福音書は単に歴史的事実を伝えているだけではないのです。そうした福音書の編纂背景を考えると、弟子たちの言動の裏にある動機が見えてきます。一番になりたい思い。信仰によって超越的な力を発揮したいという願い。賢くなりたいという動機などです。現代の新興宗教などは、人間の自然的な気持ちの発露に従っているので万人受けしやすいのです。例えば、ある宗教に入ったら、家族が平和になるとか、社会で成功者になるとかが教えられるのです。パウロなどは逆でした。そして、それがキリスト教神学の骨子なのです。パウロは、自分が向上するのではなく、キリストの為に愚か者になったと告白しています(第一コリント4:10)。これは実はスゴイ告白なのですね。親鸞なども自分の愚かさを告白していますが、救世主のための愚かさというところに、その思想のレベルの高さが感じられるのです。現代の教会に集う人々の信仰レベルは、厳しい言い方をすれば、むしろ弟子たちのレベルなのではないでしょうか。わたし自身も牧師として、パウロの様に救世主のために愚かになったと告白できるか疑問です。むしろ、わたしたちの多くは、信仰によって賢くなろうとしているのではないでしょうか。これは、実は、キリスト教の神学では「栄光の神学」というレッテルを張られた異端に近い考えです。そのことを知っておきましょう。

さて、ある教会で、青年会の働きを熱心にしていた青年がいました。ただ、わたしは其の人が教会に来る動機が気になりました。彼曰く、「教会は自分にとって清涼飲料水のようなものだ」というのです。一週間の労働の後で気分をすっきりさせてくれ飲み物だというのです。確かに、讃美歌を歌ったり、説教を聞いたりすることで、気分転換になることはあるでしょう。ただし、彼の場合には問題がおこりました。それは、同じ教会の若い女性が、彼からしつこく誘われて困っているということでした。牧師として、わたしは彼にその事を伝えて配慮してくれるようにお願いしました。ところが、次の週から彼は礼拝に来なくなりました。もはや、教会は気分をリフレッシュする清涼飲料水ではなくなったからです。苦い水になったのでしょう。あとで、知ったのですが彼は他の教会でも同じようなことを繰り返していたようです。自分の求めているものが、本当の救いではなく、欲望の充足だったわけです。ただ、今考えると、これも致し方ないことです。先にも述べましたが、この世の多くの宗教が提供しているものは、力や地位や平和などという清涼飲料水でしかないからです。それにわたしたち自身にも、まだ信仰の浅かった弟子たちのような部分がずいぶん残っているのではないでしょうか。だから、ルカ福音書の編纂の背景にある、真実の信仰を求める姿勢はスゴイものなのです。

聖書の記事に戻りますと、弟子たちの願いは的外れだったと思いますが、イエス様はそれを否定しないのです。わたしの例でいえば、「清涼飲料水」のレベルで教会に来ている人に対して、それは間違いですよとは言わないのです。イエス様は、弟子たちの視線に降りたのです。「そうだねえ、毎日仕事でつらくて、時には気分転換したいよね」、なんて言える理解力があったのです。しかし、そうでありながら、同時に近寄りがたいくらいに深い思想を彼らの心に刻むことができたのです。この辺にいきさつを学ぶと、聖書がさらに面白くなるでしょう。

さて、そんな弟子たちにイエス様が教えたのが「主の祈り」でした。これは、わたしたちがつけた名前ですから、イエス様自身は「主の祈り」とは言わなかったでしょう。わたしの書斎にもユダヤ人が使うヘブライ語の祈祷書がありますが、それはもう祈祷書というより一冊の本です。教育を受けていなかった弟子たちがこれを読めたかどうかも疑問です。ただ、イエス様はそれを熟知していました。そして、祈祷書を否定したのではなく、分厚い祈祷書の内容を一点に凝縮したのです。ですから、主の祈りには、弟子たちの願望をかなえるような文言は一切ありません。内容的には、み国を求めること、質素な生活の糧への願い、罪からの解放などでした。

それだけに終わりません。イエス様は一つの譬えを語って、この高い思想を、分かりやすく説いています。人はパンのみで生きるにあらずと教えたイエス様が、あえてパンを求める人を譬えにしたのです。そこで強調されているのは、祈りの基本とは何かという事です。この譬えは、「自分の願いを主張し続ければなんとかなる」と誤解されやすいものです。むかしの夏の高校野球では、PL学園と智弁和歌山が対戦することがよくありました。どちらも、宗教教育をしている高校です。両方の応援者たちが勝利を祈っていましたので神さまもさぞかし困ったことでしょう。これは現在のロシアとウクライナの戦争でも同じです。両陣営の信仰者たちが勝利を求めて祈っているのです。神様も困ることでしょう。

さて、イエス様のパンの例話では、「本気で求めていますか」というような教訓を述べているのではないのです。現代のアメリカの福音派教会の教えなどは、人間の熱心さを基準にしていて、神学的には正しくありません。ですけれども、この真夜中の願いという例話は、ありえない話だからこそ、神の寛大さが強調されているのです。そうなんです。わたしたちの努力や熱心さではないのです。焦点は、神の寛大さにあてられているのです。ここがイエス様の信仰心の神髄です。救い主のコアだといえるでしょう。つまり、祈りは、わたしたち一人一人を自分の子供のように愛し気にかけてくださる神を心に刻む時に、初めて祈りとして成立するのです。それは、一般の人がするような、願いの羅列ではありません。

あるときルーテル教会の修養会で、講師の故内海先生がレジュメに教会論の基本ともいえることを書いておられました。それは、「見える教会を愛する」ということです。ヨハネの黙示録に書かれた、さまざまな問題を抱えた7つの教会。それらを、神様は愛情深い親のように、忍耐して育ててくださるというのです。やはり神のみが心に刻まれるのです。そしてそれは、前述のユダヤ祈祷書の精神でもあるのです。

では、祈りの基本は何でしょうか。イエス様によれば、この例話の中の求める人は自分の為でなく空腹の友の為に願っているのです。勿論、自分の欲望の満足も大切です。神さまはそれを無視しません。必死の願いは何らかの形で聞かれます。しかし、主の祈りは祈りの基本である執り成しを示しています。他者の悪を責めることは簡単でしょう。しかし、そこには執り成しがありません。イエス様は逃げ去る弟子たちを責めませんでした。自分を十字架にかける者でさえ責めませんでした。むしろ執り成したのです。イエス様は、ご自分が教えたように生きたか方だったのです。

旧約聖書には、有名なアブラハムの祈りがでています。それも、同じです。悪徳の町ソドムのための執り成しの祈りでした。最初は50人の正しい人がいれば滅ぼさないでほしいと始まり、最後は、10人まで交渉して、彼なりに神の家のドアを叩き続け、執り成したのです。イエス様は勿論この話を知っていたでしょう。だから、まだまだ信仰の浅い弟子たちを諭し励ますために、主の祈りと譬えを教えたのです。この二つは切り離すことはできません。それはルカ福音書の編集者が、まだ信仰の浅い異邦人の信徒たちのために意図したことでした。異邦人であるわたしたちにも大切なことです。その結果、無理解だった弟子たちも、後には、自己中心の罪の殻が割れて、本気で全人類の救いを求め、執り成すようになったと、福音書は暗に示しているのではないでしょうか。

わたしたちも、まだまだ自分の欲望の充足が信仰の動機かもしれません。しかし、それでもいいのです。イエス様は「清涼飲料水」信仰を責めたりしません。かえって、とりなしてくださるのです。そして、イエス様は大きな視野へとわたしたちを導きます。わたしたちが目の前の解決を求めるときに、実は、聖霊が与えられるのです。それが一番良いものなのです。聖霊というは、求めて何かの現実を与えられること以上の喜びであって、神と結ばれている真のよろこび、救いそのものであるということです。ああ、今回は、インターネット教会の解説も、ずいぶん深いところに達しましたね。これも聖霊の働きでしょう。

執り成しの祈りを通して他人の救いを求めることは、結局自分に帰ってくることです。例えば、わたしたちの日常生活は、外側が火事になった家の中で、テレビの調子が悪いとか、誰がケーキを先に食べてしまったかという些細なことで不平不満をいっているのに似ています。火宅の人です。しかし、それでは皆滅びてしまいます。何が必要なのでしょうか。一番大切なのは、火事を消すことです。火を消すとは、わたしたちの人生では罪の運命から救われ、聖霊に結ばれ、救いを受けることです。小さな問題解決より人生の一大事に集中したいものです。わたしたちはこれを熱心に救いを求めたいものです。

「主の祈り」の原語がヤハウェとかアドナイ(神様の意味)という用語ではなくアバ(父ちゃん、という意味)の呼びかけで始められているということは、重要です。優しい親のような神様に向き直るだけでいいのです。これが、祈りの基本中の基本です。神に向くことです。そして、「わたしが、わたしが」という選挙の連呼のような祈りではなく、わたしたち(つまり、とりなしの姿勢)と複数形で考えるときに救いが実現します。共に願うのですから利己的になる筈がありません。だから、主の祈りは声を合わせて祈るといいのです。そこに聖霊の臨在があります。

印西インターネット教会は、日本全国の信者の方々にメッセージを届けていますが、今回は一緒に祈りましょう。時間や空間は離れていても、神様の世界では、なんの妨げもありません。神様は絶対愛によって聞き届けてくださるのです。そこに、救いがあります。最後になりますが、聖霊はパラクレートスであって、執り成す者の意味です。不思議ですね。ですから、わたしたちもアブラハムの様に、執り成しをするときに、聖霊の住む宮となるわけです。その宮が教会です。現代の教会が弱体化しているのは、予算や伝道計画のせいではありません。聖霊の宮としての執り成しが弱くなっているのです。「清涼飲料水」信者の増加に歯止めがかからないのです。

さて、イエス様は、物質的満足を求めていた信仰の浅い弟子たちを否定しませんでした。彼らの願いは、親のように愛を持った神様がかなえて下さるし、いや、願う前から知っていらっしゃるのだから、心配はいらないよと安心させながら、彼らが本当に成長し、共に働き、救いを確かにし、共に人類の罪からの救いのために執り成すことが可能になるという広大な救いの世界の到来を約束したのです。これは本当にスゴイです。本気に求めているのは、わたしたちではなく、愛情深い親のように執り成してくださる様なのです。これを本当に知ったら、すべての心配事は嘘のように消え去るでしょう。まさに、「眠れぬ夜のため」の妙薬です。夜中にお腹をすかして着いた旅人達のような、弱くて無力で、信仰浅いわたしたちのために、戸を叩き続けてくださる人は、救い主イエス様であり、神様ご自身ではないでしょうか。その愛に触れ、救いに触れ、主の働きを世に伝え、実践していくのが世界の教会であり、聖霊の宮なる教会なのです。

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