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パウロの異邦人伝道の成功は現状維持を好む者からの憎しみを受けた

使徒言行録21章17節36節  文責 中川俊介

長い旅を終えてパウロたちの一行はエルサレムに到着しました。そこで、筆者のルカは自分の目で確認したことを克明に記録しようとしています。「この箇所から、ルカは使徒言行録の最後の部分に筆を進める。」[1] エルサレムでは、同じ信仰の仲間たちから歓迎を受けました。一晩休んでから、パウロはルカや随行の者を連れて教会の長老たちに会いに行ったと18節にあります。最初の日に迎えに出たのは指導的な人々ではなかったようです。

19節には会見の様子が綴られています。最初に既定の挨拶があったという事は、ひとつの公式な会見であったということを示すものでしょう。「ルカは一人の使徒、つまりペテロのことを述べていない。そこから、当時もはや、ペテロやヨハネがエルサレムにいなかったことが分かる。」[2] また、パウロは以前、迫害者の側にいた人物ですから、特にエルサレムの信者にはまだある程度の警戒心が残っていたかも知れません。そして、挨拶の後は、宣教地での神の働きを証しする時でした。特に、エルサレムの長老たちはそれほど異邦人との接触を持っていなかったでしょうから、パウロが語る異邦人のあいだでの出来事は目を見張るようなものだったでしょう。イスラエルの神がもはやイスラエル一国に限定される神ではなく、天地創造の神、全人類の生みの親なる神として語られたのです。「伝道の成功は神によるのだと意図的に強調されている。」[3] それも、異国の町々での出会いや回心、迫害、救済などを事細かにパウロは伝えました。ルカにとっては、それは周知の出来事でした。ですから、ルカはここでその内容には触れません。

エルサレムの長老たちは、パウロの話を聞いて神を賛美したと20節にあります。それも、不信感を抱く者などがでることなく、全員が神の賛美を行ったのです。それも聖霊の働きだと考えて良いでしょう。「異邦人教会からの献金が感謝して受け取られたことは間違いないが、ルカはそのことに触れていない。」[4] おそらく、こうした場では、賛否両論に分かれる可能性も十分に承知の上でパウロは会見が神の働きへの信頼に高まっていくように願い、そのために祈ってきたことでしょう。ところが、彼らの言葉で気になるのは「人々が熱心に律法を守っている」というのはどういう意味でしょうか。パウロにとっても意外なことではなかったでしょうか。エルサレム教会の新しい信者たちは福音ではなく律法を守ることが救いの道だと教えられているのでしょうか。その意図は21節以下にあらわされています。こうした律法に熱心な人々は、パウロが外国で行っている伝道の風評を聞いていました。そして、長老たちもそれを信じていたようです。「パウロを信じて支えるのではなく、長老たちは風評とか体裁とかを気にしていたようである。」[5] つまり、外国人や異邦人は問題外としても、小アジアやギリシアに住んでいるユダヤ人に対して、パウロが反律法的なことを教えているというのです。部分的にはそれは真実でしょう。特に、割礼やその他の儀礼に関して、パウロはそれに縛られないように教えてきたことは事実です。ただ、21節に述べられていることの問題性は、割礼問題を根拠として、パウロがモーセの律法の否定、ひいては全旧約聖書の否定を説いているかの印象を与えていることです。イエス様でもモーセの律法を否定したわけではなく、救い主によって律法が完成される重要性を説いたわけです。「ただ彼は、キリストの恵みは、律法に縛られないと考えたまでである。」[6] それなのに、パウロが旧約聖書全体を否定していると考える人々がいたことに驚かされます。

そこで、22節には長老たちのとまどいが記録されています。確かに、パウロの伝道報告に喜んだのは真心からそうだったのですが、こと律法問題に関しては、エルサレム教会の長老たちですら解答を持っていませんでした。ということは、彼らがキリストの福音を十分に理解できていなかったという事なのでしょう。「先の者が後になり、後の者が先になる」という現象です。イエス様の伝道を身近に体験した者たちも、その深い意義をモーセの律法ひいては旧約聖書全体における救いの概念と結びつけて考えることが出来なかったのです。わたしたちはどうでしょうか。エルサレムの長老たちのようなところはないでしょうか。律法と福音の関連について話し合ってみましょう。

23節以下には、長老たちによる打開策が述べられています。パウロが律法を無視していると批判する人々に対しては、身を持って律法を守ることによって、弁明するのです。この場合には、誓願を立てた者とともに身を清めてもらい、彼らが頭をそるための費用をパウロが負担するという提案です。これをすれば、反対者もパウロは律法を尊重していると納得するだろうというわけです。考えてみれば、非常に人間的な解決策であり、単なるそぶりに過ぎないという気もします。そんな表面的なことを行うだけで、律法の意義と福音の宣教の内的な連関を明らかにしなくても良いのでしょうか。この策は、日本で言えば、玉ぐし料を出しておけば靖国神社を尊重することになるでしょうというような理屈です。

次に、異邦人クリスチャンに関しては25節以下に書かれています。以前のエルサレム会議の決議通り、異邦人クリスチャンに関しては全律法を守ることを要求はせず、偶像関係の食物を避け、道徳的に留意することで十分としました。これにはパウロにも不服はなかったでしょう。

この時のパウロの姿勢は実に従順なものでした。困り果てた長老たちの提案をそのまま実行に移しています。「パウロは、事がキリスト否定につながらないかぎり、いつでも自由を保持した。」[7] 26節以下にあるように、パウロは誓願を立てる4名を連れて神殿に行き、その剃髪のための供え物の負担を請け負ったのです。ただ、もともとパウロは律法の否定者ではなく、律法がイエス・キリストの十字架と復活によって完成されたことを告げていた訳ですから、古い律法のしきたりや慣習を実行しても、それが福音宣教と人々の寛容さにつながるならば喜んでなんでもしたと考えてもよいでしょう。パウロが日頃、「自分は異邦人に対しては異邦人の様に接し、ユダヤ人にはユダヤ人のように接してきた」(第一コリント9:19以下参照)と語っていた通りです。この点はわたしたちも学ぶ必要があるでしょう。仏教や神道の影響の強い日本での伝道に関して、この点について皆で考えてみましょう。

さて、27節から場面は変わります。7日の誓願の期間、パウロは毎日神殿に行っていたのでしょう。それは長老たちの願いではあったのですが、反対者の多いパウロには危険なことでもありました。ですから、アジア州、特にエフェソから来て五旬祭の神殿参拝をしていたユダヤ人が、目の敵であるパウロを神殿境内で見つけることになったのは決して偶然とはいえません。ですから、長老たちの折衷案というのは、パウロ逮捕への前段階となってしまったのです。「このような賢いが、ある意味で愚かな行動のために、パウロは捕えられますが、そこにも実は神の摂理が働いていたとは、実に驚くべきことではありませんか。」[8] パウロも神殿に行けばそのような事態が起こることを十分に予測できたと思います。ですから、パウロは自分を捨て、神の摂理に従って福音宣教の犠牲になる覚悟があったと考えてもおかしくはないでしょう。

パウロは扇動された暴徒によって神殿境内で捕縛されました。そして、28節にはその時の様子をルカが克明に記録しています。小アジアから来たユダヤ人たちは、自分たちだけでは力不足なので大声で民衆を扇動し、パウロは反律法主義者だと告発したのです。考えてみればおかしなことです。パウロは剃髪に関する律法を守るために毎日神殿に参拝していたのに、そのパウロが反律法主義者だと訴えたのです。イエス様の処刑の時もそうでしたが、群衆というのはいかにも弱いものです。現代でもそうです。群衆の意見に迎合し、ヒーローを捏造したり逆に偶像の問題点を暴露したりするのがマスコミですが、自分たちの過去の報道に対する責任感があまり見られません。神殿の群衆を扇動したユダヤ人も同じです。彼らの叫びにはいくつかの特徴が見られます。そしてそれは群衆にとって理解しやすいものでした。第一に、小アジアのユダヤ人は群衆の助けを求めています。貴方の存在が重要なのだと頼られたならば、誰でも悪い気はしないでしょう。第二に、パウロは律法と神殿を無視するように宣伝している人物だと言ったのでした。神殿に集まった人たちは宗教熱心な人々ですから、パウロが律法と神殿の冒涜をする人物だと聞けば憤慨するのは当たり前です。そして第三に、パウロの同行者のことですが、トロフィモというギリシア人を神殿境内に連れてきて神殿を汚していると訴えたのです。人々が憤慨したのは当然でしょう。「宮が汚されるということは、祭りに集まってきているほどの熱心なユダヤ教徒たちにとっては、大変なことでした。」[9] しかし、冷静に考えれば、この時パウロは清めの儀式をおこなっていたので、神殿を冒涜するなどという事は不可能でした。29節にはそうした神殿冒とくはたんなる濡れ衣だったと説明されています。

30節には、その後の群衆の反応が描かれています。彼らがパウロのもとに駆け寄ったということに状況の緊迫感があらわされています。そして、神殿の門は閉ざされました。31節を見ると、群衆は神殿の外にパウロを引きずり出すと、その場でパウロを処刑しようとしたようです。神殿内で血を流すことは禁じられていたからです。その最中に、その暴動の知らせが、神殿に隣接している砦に駐留しているローマ軍指揮官に届きました。ローマ軍の動きは迅速でした。こうでもしなければ、「パックス・ロマーナ」と呼ばれていたローマの平安は保たれなかったと思います。32節に群衆を鎮圧するローマ軍の様子が記録されています。「エルサレムの駐留軍は760名の歩兵と、240名の騎兵によって構成されていた。」[10] 当時のローマ軍は一軍団が5千人規模の集団でした。ですから、千人隊長というのは一軍団の中で重要な役割を占め、その指揮下に百人隊長がいたわけです。32節には、軍の到着によって暴徒はパウロを殴るのを止めたと書いてあります。そのまま放置されればパウロは残酷にも殴り殺されていたに違いありません。

千人隊長は、パウロの身柄を確保し、逃げないように鎖でつなぎ、尋問しました。パウロはもはや口をきけないほど衰弱していたか、意識が朦朧としていたのでしょう。34節にあるように千人隊長は、周囲の群衆に事情を聴いても、興奮している彼等からはなにも正確な情報が得られないと判断しました。そこで、ローマ軍の兵営にパウロを連行しました。35節にも、パウロを憎しむ暴徒たちの行動が鮮やかに描かれています。暴徒たちはもはやサタンの手先と化し、ローマ軍がいるにもかかわらず、すきさえあればパウロに一撃を与えようとしていたので、兵士たちは人々の手が届かないようにパウロを担いで行ったとあります。「ほかの群衆が27年前に叫んだと同じように、人々は彼を殺せと叫び続けたのです。」[11] やはり、聖霊の予告にあったように、パウロの迫害がエルサレムで行われたのです。そして、それはイエス様の場合もそうでしたが、多くの預言者に対しても同じでした。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」(ルカ13:34)それは神に対する人間の罪の深さを示しています。ただ、「神の摂理は、人間にとって悪いと見えることさえも、良いことへと変える力をもっているのです。」[12] わたしたちもこれを深く覚え、希望に生きることが大切でしょう。

[1] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、197頁

[2]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、272頁

[3] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、343頁

[4] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、429頁

[5] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、198頁

[6] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、275頁

[7] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、276頁

[8] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、304頁

[9] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、337頁

[10] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、348頁

[11] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、436頁

[12] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、304頁

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