島田陽子さんが大腸がんで亡くなられました。69歳だったそうです。安倍晋三さんは銃で狙撃され67歳で亡くなられました。どちらの方も、現役時代は知名度はかなり高かったと思います。安倍さんの場合には、死後でもその影響力は強く、国葬という形で最後を締めくくるようになっています。一方で、島田さんの場合はどうでしょうか。なんと、遺体の引き取り手がなくて、病院はまだ死体を冷凍保存しているということです。ということは、島田さんの死を惜しみ、丁重に葬儀しようとする人がいないということです。これも寂しいことです。かたや国葬、そして他方は仏教用語での無縁仏。あまりにも大きな対比にため息がでます。人間の死とはな何なのだろうかと考えさせられるわけです。そんなときに、聖書を読んでみると意外な方向性が見えてきます。ラザロと金持ちの例話です。もう、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。金持ちの方は、いわば、安倍さんの様に社会的に恵まれた人でした。ラザロは、その金持ちの家の前で物乞いをしていた全身できものだらけの貧しい人でしたので、栄光の道を歩んだ島田さんとは立場が違いますが、最後には誰にも顧みられることなく一人で死んだという点では、ラザロと同じだと思います。やがて、金持ちも死にました。しかし、「金持ちは陰府でさいなまれながら目をあげると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」(ルカ福音書16章23節)金持ちは地獄の炎の中で苦しみ天国のアブラハムに助けを求めました。ところが、返ってきた答えは、「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、おまえはもだえ苦しむのだ」(ルカ福音書16章25節)ということでした。人間の死に関する、神の視点からの公平性が描き出されていて興味深いものです。勿論、島田陽子さんはラザロとは違って、一世風靡した人であり、その点では、安倍晋三さんと同類項だといえるでしょう。ラザロに似ている立場の人と言えば、コロナで孤独死する人とか、橋の下に住んでいて顧みる人のいないホームレスのような人のことでしょう。ウクライナ戦争でロシア軍に虐殺された多くの無名の犠牲者も同じです。彼らのために国葬などを考える人はいません。それであっても、神の立場からは、すべての人が、地位や権力、美貌や知名度、財産の多さなどとは無関係に、忖度なしに公平に裁かれ、その受ける分を受け取るということが告げられています。この透徹した死生観は昔の仏教にもありました。しかし、最近の宗教思想の低迷で、死の意味すらあいまいになっています。ですから、死の再考察を必要とする昨今ではあります。さらに、この公平性の中では、この世の生活がどれほどみじめで辛いものであっても、死後に慰めがあるという良い結果が約束されているのでホッとさせられます。