聖書研究

パウロが残した貴重なキリスト教弁証論によって困難に立ち向かう勇気をもらう

使徒言行録21章37節-22章16節  文責 中川俊介

状況は緊迫していました。ローマ軍の兵士はパウロを群衆から引き離したのですが、もともとユダヤ人は駐留するローマ軍に反感を持っていたわけです。ですから、この事がきっかけになって、パウロに反対するどころか、ローマ軍に対する暴動に発展する可能性もあった訳です。ただ、そのようにはなりませんでした。それはパウロの提案によるものでした。37節にあるように、神殿のすぐ近くにあったローマ軍の砦に収監されようとした時、パウロは黙っていませんでした。そこの司令官である千人隊長にギリシア語で話しかけたのです。千人隊長は驚いたと思います。「彼は、少し前にエジプトからきて、この地で抵抗運動を起こした偽預言者をつかまえたのではないかと推測したからである。」[1] この騒動は、彼にとって、無知なユダヤ人同士のもめごとだと見えたことでしょう。ところが、パウロは当時の学識者やローマ市民しか用いないギリシア語で話しかけたのです。その時の千人隊長の質問に、彼がパウロのことを誰だと思っていたかが明らかです。彼の目にパウロは、38節にある反乱の指導者であり、エジプト人であったのです。エジプトと言っても、そこにはユダヤ人が住んでいたことですし、正確に言えば、エジプト出身のユダヤ人という事でしょう。実際に当時の歴史家であるヨセフスはこの時より3年ほど前のエジプト出身のユダヤ人による大反乱を記録しています。「ヨセフスによれば、エジプト出身の偽預言者がいて、エルサレムを攻略するために3万人をオリブ山に集結させたとある。」[2] 既に激動の時代であったわけです。その後十数年して、エルサレムは駐留軍どころではなく、何万ものローマ軍に包囲され滅亡しています。これは、歴史を見るうえで大切なことです。神の支配下にある歴史の流れでは、物事は何の脈絡もなく突発的に発生しません。神は必ずいくつかの兆候を示してくださるのです。この点について皆で経験を語り合ってみましょう。

38節には「暗殺者」という物騒な言葉が出てきますが、それはもともと原文に暗殺用の短剣を持った者たちが4千人いたとあるのでこのように訳された訳です。それはともかく、パウロは千人隊長に、自分はそのエジプト出身のユダヤ人と同じユダヤ人だが、出身はタルソスであると言ったのです。おそらく、このタルソス出身という事がローマ市民権を有しているという意味があったわけです。パウロは信仰者でしたが、この世の知識とか権利を主張することもやぶさかではありませんでした。それは自分の命が惜しいためではなく、福音のために証しする機会を求めていたからです。千人隊長はこれを聞いて、パウロを犯罪者としてではなく、裁判権を有する一個人として扱うことになりました。ここでわたしたちの姿勢を考えてみましょう。わたしたちは法的な権利とかこの世の制度を十分活用して福音宣教に役立てているでしょうか。皆で考えてみましょう。

そこで、40節にあるように千人隊長の許可を得たパウロは群衆に福音を語ることになりました。「当時のローマの世界は、ギリシアの哲学、ローマの法律と政治、さらにユダヤの宗教、この三つが、人間の文化を支えるものとして登場してきました。」[3] ローマ軍としても、パウロ自身に弁明させて、この群衆の騒動が政治的な暴動に発展するのを防ぎたかったのだと思います。それに、ルカは事実しか記録していませんが、パウロと千人隊長の間にはローマ市民権の確認があったことと思います。ローマ帝国はそれほどローマ帝国市民の人権を法で守っていたのです。それがやがて近代の法治国家に適用されていったのです。神はこうした制度もパウロの働きのために用いられたのです。ですから、大きく言えば、社会の秩序も神の摂理の賜物だと言えるでしょう。この権利を得たパウロは、受けた暴力で痛む傷などをものともせず、砦に上る階段をあたかも演台のように活用し、眼下に群がる人々に語りかけたのです。「パウロは群衆に、自分の生涯の歴史を語った。それが彼の弁明であって、同時に人々を信仰へと導く、最も生き生きとした呼びかけなのである。」[4] これはパウロの得意とするところです。そこでヘブライ語で話し始めたとあります。しかし、原語をみますと「ヘブライ語の地方語で話した」とあるので、公式な宗教語であるヘブライ語ではなく、民衆の用いていたアラム語ではなかったかと想像されます。本格的なヘブライ語は非常に難解であり、現代のイスラエルで用いられているヘブライ語もウルパンと呼ばれる簡略化したヘブライ語でしかありません。パウロは、ですから相手の立場に立って理解しやすい民衆の言葉で福音を伝えたわけです。この点はわたしたちにも応用できるでしょう。いくら福音を知っていても、それを周囲の人々が理解できる方法で語らなくては伝わらないのです。わたしたちの教会の福音宣教にどんな形が可能なのかを話し合ってみましょう。

22章の1節にはいると、パウロがどのように人々に語りかけたかが書いてあります。「パウロの演説の最初の部分は、ルカの記録の最後の部分における主題を提示している。」[5] パウロは自分に暴力を加えた人々に対して、「兄弟であり父である皆さん」と優しく呼びかけています。まさにイエス様の「汝の敵を愛せよ」という教えが生きていたのです。喧噪状態だった群衆は静まりました。そこでパウロが語った「弁明」というのは、ギリシア語でアポロギアであり、もともとは法廷で答弁するという意味です。これはキリスト教の歴史では大切な言葉で、その後の異端や異教との接触をとおして、神学者たちはキリスト教擁護の「弁証論」をアポロギアとして世に出していったのです。別の角度から見ると、まさにルカの書いたこの使徒言行録自体がアポロギアであり、この部分でのパウロの訴えが、その中心核をなしていることが分かります。つまり、使徒言行録自体は後半の部分に入っているわけですが、ここでまさに中心的な福音をルカがアポロギアとして記述していると言って間違いではないでしょう。

3節以下でパウロは自分の出自を告げます。ローマ市民権を有するユダヤ人であり、ガマリエルという有名な学者のもとで学んだラビであり、教師であり、律法の専門家であったというのです。「パウロがユダヤ人の律法と宮に逆らうことを教えているというデマによって暴行を受けたところでしたから、彼はそれらのことを念頭に置いて語っています。」[6] 4節にはパウロの暗い過去があからさまに書かれています。迫害者だったことは時々書かれていますが、具体的にはクリスチャンを処刑していたのでした。それも男女を問わず無差別に、無慈悲な行動に走っていたのです。パウロがキリストの愛と赦しに触れていなかったら、こうした自分の暗い過去を人々の前であからさまに話すことはできなかったでしょう。これが実は「弁証論」の核心でした。4世紀の神学者アウグスティヌスもその著作「告白」で自分の暗い過去に触れています。それがまさに「弁証論」だったのです。

5節以下にあるように、パウロはそうした迫害を個人的な感情で行っていたのではなく、大祭司の許可を得て、ダマスコまでも範囲を広げてユダヤ教の敵であったキリスト教を撲滅しようとしていたのです。ですから、これを聞いていた群衆の中でもパウロのように年配の者はきっとパウロの記憶を持っていたにちがいありません。パウロはユダヤ人社会で公式に認められた迫害者だったのです。

その後、6節からは以前に書かれたパウロの回心の部分がそのまま使用されています。「回心は、人間の一切の誇りを奪います。」[7] 回心する時、見栄や外見は気にならなくなるのです。パウロはダマスコ途上でイエス・キリストの啓示を受けました。「パウロはイエスを信じるようになった。自己の選択、もしくは自己の卓越性が、彼をキリスト者にしたのではない。」[8] それが、まさに啓示という意味です。そこでパウロが知ったのは、自分が迫害していたのは実は、クリスチャンではなく、イエス・キリストであり、神ご自身だったという事です。神こそ、その迫害を忍耐されておられるのだと、ルカはパウロの言葉を通して証ししているのです。この冷酷な学者パウロをイエス・キリストは裁くことなく、愛の宣教者として育てていきました。愛を知る近道は、愛を知った人に出会う事です。目が見えなくなったパウロは、13節にあるようにダマスコでアナニアという深い信仰心を持った愛の人に出会いました。アナニアはまさにイエス様の「汝の敵を愛せよ」という教えに従って生きていたわけです。そうでなかったら、パウロを癒すことはできなかったでしょう。パウロに対して「兄弟サウル」と優しく呼びかけています。だから、パウロ自身も怒り狂う敵愾心と憎しみに燃えた人々にも、「兄弟であり父である皆さん」と優しく呼びかけることが出来たのです。憎しみは憎しみを連鎖させ、愛は愛を連鎖させるのです。

ここで、14節以下のアナニアに言葉は、9章17節以下と比較するとより内容の深いものとなっています。「アナニヤは、ただ神の召しによって立っているのであります。こういう人が回心には必要なのであります。この人は、大学者ガマリエルもなしえなかったことをするのです。」[9] ルカはこの劇的な場面のためにこの部分をとっておいたとも言えるでしょう。アナニアによれば、パウロは神に選ばれたのです。この神の選びの思想は福音の根幹をなすものです。それはエリート主義ではありません。神はもっともふさわしくない者をも神の器として選んでくださる。つまり、愛の深さです。アナニアは一般的な神と言わず「先祖の神」と言いました。これは伝統的な表現であり、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」などとも言われます。つまり架空の神ではなく、実際に先祖たちが悩みと苦しみの中で光を見出した救いの神に言及する大切な表現なのです。そして先祖の神は、イエス・キリストとの出会いを準備しました。さらに大切なのは15節です。この選びは、このエス・キリストとの出会いの体験を告げ、証人となるためなのです。「この証人という言葉は、原語のギリシャ語ではマルチュリアと言って、殉教者という意味もあるのです。」[10] 理論ではありません。証人とは自分の好みではなく神の導きに従う者のことです。こうした自己放棄、あるいは無私の心理状態がおこるのは聖霊の働きなのです。そこには疲労感や、犠牲の意識や義務の意識はありません。ただ、神に従う喜びが溢れるのです。伝道行事でもそこに証人が不在では、から騒ぎや徒労を生むにすぎません。逆に、何の予算もなく出版もなく集会がなくても、証人がいるかぎりキリストの福音は伝わっていくのです。現在のアフリカでキリスト教が驚くような発展を遂げているというのは、そこに多くの証人が存在するからでしょう。インドにキリスト教が広まったのも、マザーテレサを始め多くの証人の働きによるものです。実は、わたしたち自身も、キリストの福音の証人としてユダヤ人の先祖の神から「選ばれている」のです。この点について話し合ってみましょう。

そしてさらにアナニアはパウロに洗礼を勧めたと16節に書いてあります。「何をためらっているのかというアナニアの言葉は、すこし不自然であり、ギリシア語本文の意味は、単にこれからあなたは何をしますか、という意味に過ぎない。」[11] イエス・キリストとの出会いは洗礼に導きます。なぜなら、イエス・キリストの洗礼こそ、人を罪から洗い清める唯一の救いの手段だからです。このアナニアの言葉も9章には見られないものでした。9章ではパウロが洗礼を受け元気を取り戻したとだけ記されています。ですから、ルカはこの神の選び、イエス・キリストとの出会い、そして罪の赦しの洗礼、というキリスト教で最も大切な教えをここにパウロの証言をとおして記述したのです。それこそ、ルカが2千年後のわたしたちのために残してくれた「弁証論」だったのです。

[1]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、281頁

[2] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、351頁

[3] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、308頁

[4]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、282頁

[5] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、204頁

[6] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、345頁

[7] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、311頁

[8] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、283頁

[9] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、311頁

[10] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、339頁

[11] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、357頁

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