印西インターネット教会

涙と悲しみの後に来る喜びについて学ぶ読む説教

「隠された宝」         マタイ13:44-52

明日は終戦記念日です。太平洋戦争が終わって77年になります。それは大きな痛みと悲しみの時でした。戦争ではありませんが、11年前には、わたしたちは何百年に一度という自然災害、そして人的災害ともいえる原発事故に遭遇しました。わたしたちの時代は、特に戦前戦後を生きてきた人々には激動の時代だったと思います。御巣鷹山では、今から37年前に520人が犠牲となる日航機の大事故も起こりました。ただ、終戦時に小学校1年生くらいで、終戦の時の記憶が残っている人々も、すでに84歳になり、戦争の国民的記憶も消える寸前になっているといえるでしょう。戦争にしても、災害や事故にしても、愛する者との別離はつらいものです。日航機墜落事故で奇跡的に生き残った乗客の証言や、現場から発見された遺書がそれを物語っています。その一つにはこのように書かれています。

「どうか仲良くがんばってママをたすけて下さい。パパは本当に残念だ きっと助かるまい。原因は分らない。今5分たった。もう飛行機には乗りたくない。どうか神様たすけて下さい。きのうみんなと食事したのが最后とは。何か機内で爆発したような形で煙が出て降下しだした。どこえどうなるのか。津慶(つよし)しっかりたのんだぞ。ママこんな事になるとは残念だ。さようなら。子供達のことをよろしくたのむ。今6時半だ。飛行機はまわりながら急速に降下中だ。本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している。」

こんな人生の終わりがあったことを、わたしたちは忘れてはならないでしょう。今でも、ウクライナでは戦争で多くの家族が悲しい死別に遭遇しています。しかし、戦争、災害、事故は、すべてが地獄だったのでしょうか。イエス様の十字架はどうでしょうか。でも、もしかしたら、苦しみの中にも天国へ通じるものがあるのかもしれません。普通の人の死は、忘却されてしまうのに、「神様たすけて下さい」と書いたパパの遺書は歴史に残ったのです。イエス様の教えた天国への道も、誰にでも理解できるものではなく、隠されているものだったようです。

旧約聖書の詩編126編にこう書いてあります。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈りいれる。」人間的にはどう考えても悲しみでしかない悲惨な状況であっても、それが実は隠された宝だったという神の働きを教えるものです。これも理解するのが困難な教えです。

また一方で、イエス様は、死んでからではなく生きているうちに天国を見つけるならば、あまりの喜びのために全財産を売り払っても、天国に入るチケットを手に入れるだろうと教えました。ここで、財産とはある面でその人の命と同等な価値ある存在でもあります。マルクスという学者は、人間は労働して、命を金銭に変えていると考えました。財布にあるお金も、ある面では命の換金されたものだという考えです。額が大きければ大きいほど換金された命の割合が大きいはずです。そこで、全財産を売り払うということは、全ての換金された命よりもさらに尊い、天国という存在を発見したという事です。

使徒言行録17:25には、「全ての人に命と息と、その他すべてのものを与えて下さるのは、万物を造られた神です」と書いてあります。わたしたちは命を持っていると考えていますが、それは人間中心的な考えです。間違いだとも言えるでしょう。聖書では命は賜物、あるいはプレゼントとして考えられています。自分のものではないのです。わたしたちの努力の結果でもありません。神様が与えて下さったものです。恵みです。そして、イエス様という救い主を通して、わたしたちが「原罪」から救われ、さらに豊かな賜物「永遠の命」が与えられるのです。

ここで、命の換金試算をしてみましょう。皆さんの命はいくらですか。津波の犠牲になった子供たちの親が幼稚園を訴えたことがありましたが、その子供たち一人の命の賠償は1億円にも満たないものでした。一年に500万円稼いだ場合には、20年分ということです。40年働けば2億円になるはずです。それでも、働ける年数にも限界がありますから、その場合には、わたしたちの命の生み出す価値にも限界があるでしょう。ところが永遠の命を換金したらどうでしょうか。年数に限界がないのですから、その価値は無限になるはずです。それをイエス様は教えたかったのではないでしょうか。46節にあるように貴重な真珠を見つけたら、全財産を犠牲にしてもそれを買うのです。ここでの全財産とは換金されたその人の命と考えていいでしょう。ですから、ここでは、命を捨ててもこの真珠を手に入れると理解してよいでしょう。ただ、ここでの命ですが、それはやがて戦争や災害や事故や病気で、必ず、100パーセント確実に失われる、限界あるつかのまの命でしかないのです。わたしたちは、ともすれば、失われるべきものを失うまいともがいているばあいがあります。捨てきれない、離れきれない、という苦しみです。パウロは永遠の命の救いを得て、そうした普通の人生の矛盾に気づきました。そして教えています。「苦しめられても行き詰まらない。途方に暮れても失望しない。打ち倒されても滅ぼされない。なぜなら、死ぬはずのこの命にイエス様の永遠の命があらわされるからです。」(第二コリント4章)それはローマ書にあるように「万事が益となる」と信じる信仰です。「万事」ということは、幸せなことも悲しいことも、すべてを含む万事なのです。

この高価な畑の宝、高価な真珠、それはイエス・キリストが人生に介入してくださる比喩だと考えていいと思います。キリストが心の中に入ってくださること、それが永遠の命なのです。特にお札を買ったり、修行する必要はありません。これも無代価のプレゼントだからです。ただ、失われるべき古い命にしがみついている姿勢を手放すことが必要です。ルターは「人間的な知恵をこわし、取り除き、断絶すること」が大切だと教えました。キリストに頼れば良いのです。ですからパウロも「生きているのはもはやわたしではありません」(ガラテヤ2:20)と告白しています。

であるならば、最大限の幸せの道は、完全に手放すことにあります。最近読んだ、「断捨離」という仏教系の本に、こう書いてありました、「捨てるは、喜捨であり、施すという意味も含まれている。」これはキリスト教とも共通点がありますね。おそらく、津波の時も、東京大空襲の時も、広島・長崎原爆投下の時も手放なさなければならなかった人生があったでしょう。「本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」という一言も、手放す用意ができた人の言葉です。わたしたち自身も手放す時があるでしょう。しかし、イエス様はそれを決して悪い事、不幸な事だとは考えていません。イエス様ご自身が十字架上で喜んで命を手放した方だったからです。

西洋の童話にはキリスト教的なものが多くあります。「幸福な王子」という話があります。少し長いですが引用します。

むかしフランスのある地方に「幸福な王子」と呼ばれる美しい王子がいました 。ところが突然王子は亡くなってしまい、 国民は王子の銅像を町にたてました。ある日エジプトへ渡る途中にやってきたつばめに、王子は一晩だけ手伝いを頼みました。王子の剣についていたルビーを貧しいお針子に・・・次に王子の眼の宝石を抜いて・・ 一つは貧乏な作曲家へ、もう一つは、こごえるマッチ売りの少女へ。王子は両目を失いました。秋が深まってもつばめは王子といっしょでした。そして両目を失ってしまった王子につばめは・・一晩中肩に止まり、エジプトのスフィンクスの周りを7周もしたとかピラミッドにある快適なベッドの話などいろいろな国の話をしつづけました 。まだまだ飢えた子どもがたくさんいる、こんどは私の金箔をはがして配りなさい、そう王子は言いました。そしてとうとううす汚れた灰色の王子になってしまいました。冬が訪れ雪が降り出しました。つばめは王子に別れを告げると下に 落ちて死んでしまいました。その時王子の心臓もはじけてしまいました。一夜明けるとクリスマス!こんな汚いものはとっとととりのぞけ!そう、人々は言いました。王子の鉛の心臓はつばめとともにごみ捨て場に捨てられました。神様は言いました。『あの町でもっとも尊いものを2つ持ってきなさい』天使たちはごみ捨て場から”鉛の心臓”と”つばめの死骸”を持ち天に向かいました。ふたりは天国で「永遠の命」をさずかり天国の門を守りながら幸福に暮らしました 。

神さまは、人々が捨てたもの、つまり鉛の心臓と、小さなツバメの死骸を価値あるものとし、その他の良くないものと区別して下さったのです。それが神の働きであり、隠された宝です。わたしたちもこのような隠された宝を持っています。それに気づくときに、失うことを恐れない生き方、喜んで与える生き方に生まれ変わるのです。ボロボロになった童話の王子様はイエス・キリストの姿ではないでしょうか。しかし、外面はボロボロでも、神様の隠された宝はなくなっていません。王子様の愛を苦しんでいる人々に届けたつばめは、誰でしょう。それは神の絶対愛を信じる人々の姿です。神様がわたしたち一人一人に望んでいる姿ではないでしょうか。今は悲しく辛くても、それはやがて来る喜びの刈り入れの前兆であることは確かです。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈りいれる。」

 

 

モバイルバージョンを終了