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神の摂理についてパウロの証言から学ぶ

使徒言行録22章17節23章11節  文責 中川俊介

パウロの回心についての話は続きます。聞いている人々にこれがどれだけ理解できたかは疑問です。ですが、パウロは時が良くても悪くても福音を伝えようとします。17節ではダマスコでの劇的な体験の後日談のような部分が語られています。それは、パウロがエルサレムに帰ってからの事でした。祈りの最中に、忘我(一種のトランス状態)になり、主に会ったと言うのです。ダマスコ途上で主にあったのが最初で、これが二回目になります。この時の主の言葉は、「すぐにエルサレムから出ていきなさい」でした。エルサレムの人々がパウロの証しを受け入れないからです。19節にはパウロが自分の迫害者であった時の行いが述べられています。ステファノの処刑にも加わったのです。そうしたパウロが、クリスチャンの側についたと知れば、人々は裏切者として今度はパウロを迫害する事でしょう。パウロはそれも覚悟の上でクリスチャンになったのです。自分の犯した過ちは償いの必要があると思っていたことでしょう。ところが、主は、21節にあるようにパウロをエルサレムから離れさせ、外国で異邦人に福音を伝える器として聖別したのです。神は、実際に最もふさわしくない者を選ばれたのです。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは何故選ばれて信仰をいただいているのでしょうか。

22節には、「あなたを異邦人のために遣わす」というイエス様の言葉をパウロから聞いた群衆の反応が出ています。何故、彼らは怒ったのでしょうか。「パウロのあかしでは、選民をさし置いて、異邦人のところへ遣わされたというのです。」[1] ユダヤ人の選民意識がパウロの言葉によって侮辱されたように感じたからでしょう。こうして、パウロがユダヤ教の裏切り者だと思い込み、群衆は激怒し、生かしておけないとまで叫びました。宗教的であるべき人々にどうして殺意が生じるのでしょうか。イエス様が教えたように怒りイコール殺人である良い例です。宗教的とはいっても、それは規則と律法に凝り固まった盲信となっていたのです。聖霊の助けなしには人間の信念は誤った方向にいくのが常です。23節に群衆が荒れ狂う様子が描かれています。そこで、千人隊長はパウロを収監し、鞭で拷問して調べようとしたと24節にあります。「当時、この拷問はひどいもので、この拷問にかけると、時には死ぬ者も出るほどで、たとい死ななくても生涯不具になることは珍しくありませんでした。」[2] 当時は、犯罪人、征服民、奴隷などの取り調べの前には鞭打ちが用いられていたようです。そこで、パウロは取り調べ担当の百人隊長に抗議しました。ローマ市民の有する裁判権を無視して鞭で打っても良いのですかと言ったのです。百人隊長は驚いて千人隊長に相談に行きました。27節に、千人隊長がやってきてパウロに直接尋ねたとあります。ここで間違いを犯せば、自分の立場も危ないからです。こうした点にも、当時のローマ帝国が強い法治体制を持っていたことが分かります。少し前にパウロは千人隊長に彼がタルソス市民であることを告げました。それだけでも、パウロがローマ市民権を有することは想像に難くなかったはずです。しかしここで、千人隊長はハッキリとローマ市民権について尋ねました。「当時はローマ市民権を偽ることは死罪であった。」[3] 彼には不思議なことでした。この貧しくボロボロに傷ついた伝道者がローマの市民権という特権をもっているわけです。「たぶん、そのとき彼はローマ市民の様にはみえなかったのであろう。」[4] 千人隊長自身は多額の費用を出して市民権を購入したのです。パウロは言いました。生まれつき市民権があるのだと。確かにタルソス市民はローマ市民権を持っていたし、パウロの父親がすでにローマ市民だったのです。この事を知って、暴力的な取り調べを行おうとした人々は手のひらを返すかのように態度を変えました。パウロを捕縛したことさえも悔やまれたのです。

収監されたまま一夜が過ぎました。外にいたら暴徒に襲われて命を失っていたでしょう。ですから、これはパウロにとって幸運でした。30節には、千人隊長がパウロの鎖をはずしてパウロに聞いたとあります。群衆の騒ぎについては自分がローマ政府に報告しなければならないので、詳しい理由を知りたかったわけです。そして、個人的な尋問だけでなく、祭司長や最高法院の議員たちもそのために招集しました。千人隊長には非常に大きな権力があったことがわかります。パウロ一人のためにユダヤ人国家の政治宗教の中枢である人々を招集できたのです。今度は、無知で感情的な群衆ではなく、学識もあり地位もある人々の前でパウロは証しすることになりました。パウロは相手が誰であっても物怖じすることがありません。キリストの霊に導かれているからです。イエス様も裁判に引き出された時は怖れてはいけないと教えました。「この出来事はイエスが裁判にかけられた時のことを読者に思い起こさせる意味もあったであろう。」[5] 言うべきことはその時に神から与えられるからです。おそらく、パウロも同じだったでしょう。

23章の1節からこの弁明が始まります。「この個所におけるパウロの言動については、その評価と解釈はまちまちです。」[6] つまり難解な部分でもあります。パウロの語りかけは、「兄弟たち」という温和な表現で始まりました。そして、パウロは神への忠実な生活をしてきたことを述べます(第二コリント1:12)。ところが意外なことにこの言葉は、大祭司アナニアを激怒させました。2節にあるように、パウロの口を打つように命じたことは、このほら吹きの口を封じよということでしょう。3節にありますが、パウロも黙っていませんでした。「律法は、裁判官に真理をあきらかにしてのち、初めて判決を下すことを義務づけている。」[7] 相手が大祭司であろうと、パウロはひるみませんでした。「山上の説教での主の教えは、個人的な怨みから復讐することを戒めているのであって、公の不正や、法的な正義問題に関する抗議や抗弁、また身のあかしを立てることを禁じているのではありません。」[8] イエス様の言葉と似ていますが、大祭司を「白く塗った壁」と呼びました。この言葉はエゼキエル書13:10以下の引用です。その意味は「平和がないのに平和だと言って人々を惑わす」ということでした。ちなみに、この白壁の人物であったアナニアの末路は決して良いものではありませんでした。「ネベダイオスの子アナニアは、紀元48年頃指導的祭司に任命され、クマヌスが皇帝の総督であった時代、この位置を得ていた。」[9] やがて、戦争が起った時にかれはローマの手先として憎まれ、彼の家は焼かれ、紀元66年に彼は熱心党に殺されたのです。「ヨセフスは彼が神殿の献金をも着服していたと記録している。」[10] パウロに暴力を下した時に、彼自身が暴力によって惨殺されると想像できたでしょうか。彼は自己矛盾に落ちいっていたわけです。だから、そうした暴力行為こそ律法に従っていると思っていう人物の反律法行為なのだと、パウロは反論したのです。相手の自己矛盾を突いたわけです。考えると普通の人間にはこのような自己矛盾がかなり多いのではないでしょうか。

パウロの鋭い言葉に対して、傍聴していた者たちが、怒号をあげました。彼らにとって大祭司は神的な存在であって、パウロのような発言は失礼であり許せないと言うわけです。まさに人間が神のようになっているわけです。そこで、5節ではパウロは語調を変えて、この無知な人々に語りかけます。「神の設定がその職を栄誉あるものとしているのだから、その職は、依然として神聖であり続けることを、パウロは認めた。」[11] この点が複雑なのです。パウロは反対者に媚びたわけではないでしょう。それだけでなく、パウロはほかの知識を示し、「指導者を悪く言うな」という決まりがあると述べています。大祭司に理不尽な人が選ばれたとしても、大祭司職は神が定めたものであって神聖だとパウロは信じていたのです。これは出エジプト記22:27からの引用です。同じことが牧師にもいえます。牧師の性格や業の良し悪しとは関係なく、牧師の立場は按手によって聖別された神聖な役職なのです。歴史的に見て、初代教会の人々は暴虐な国家権力に対しても、それに対して暴力革命を企てることなく迫害を忍耐して自由を勝ち取りました。逆に、第二次世界大戦中に神学者のボンフェッファーはヒットラー暗殺計画に加わりましたが捕えられて処刑されました。暗殺がなくても神はヒットラーの残虐非道な行いを、ドイツの敗北とヒットラーの死によって終わらせたのです。神の摂理は、当初はなかなか理解できない場合が多いでしょう。

ただし、パウロが喚問された会議では、群衆だけでなく、国家中枢の人々も神の真理には無知であり、人を神のように崇めていたことがわかります。そこでパウロは腰を低くして謝罪しています。「パウロは人間であり罪ある者であった。」[12] 大祭司とは知らなかったというのです。

ここで、議論が終わったのではありません。パウロはこの機会をも福音宣教の機会としてとらえたのです。最高法院議員はサンヒドリンと呼ばれ70名いました。彼らは色々な派閥の代表者だった訳です。その中にサドカイ派のグループ、ファリサイ派のグループがあるのを知りました。そこでパウロは、6節にあるように、ファリサイ派の理解を求めて、「死者の復活を信じていることで裁判にかけられている」と述べたのです。ここでイエス・キリストの復活と言わなかったのはパウロの意図だったのでしょうか。それ以上敵を作らないことは賢かったと思います。パウロもファリサイ派のユダヤ教徒だったのです。この結果、復活を信じないファリサイ派のグループとサドカイ派のグループの間には復活に関する宗教論争が始まってしまいました。ですから、この会議を招集した千人隊長などは、この時点で全く理解不能の状態になっていたことでしょう。それにしても、サドカイ派は復活はともかく、天使も霊も信じてなかったとは驚くべきことです。二千年前にもリベラルな人が存在したというよい証拠です。だだ、パウロの指摘により議論は過熱し、ファリサイ派の学者たちがパウロを弁護しました。おそらく、パウロの師匠であったガマリエルを尊敬していた人々でしょう。パウロには何も悪いことはないと主張したのです。勿論、パウロがクリスチャンに改宗していることを知ってのことです。確かにユダヤ教の学者の中にはニコデモのようにイエス様の教えに共鳴していた人も少なくなかったでしょう。「ファリサイ派の人はクリスチャンになってファリサイ派であり続けることができた。」[13] ですから、学者たちはパウロの言動を天使か霊の語りかけと解釈しました。それまで黙って聞いていた千人隊長は、パウロの身を案じて、会場からパウロを再び収監するように命じたと10節にあります。

すべての喧噪が収まった夜更けに、兵営でおそらく祈っていたパウロにイエス様が語りかけました。これはパウロにとって大きな慰めだったことでしょう。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えてくださるお方です。」[14] イエス様は勇気を出すように命じました(ヨハネ16:33参照)。そして、この件はエルサレムで決着がつくのではなく、ローマにパウロが送られること、そしてそこで再び証しする機会があると示されたのです。「パウロはエルサレムへの旅行をやめなかった自分の決断が正しかったとの確認をも受け取った。」[15] 拘束されたパウロは自由に伝道する機会を奪われましたが、逆に、弁明することによってイエス・キリストの救いを証しする機会が与えられたのです。まさに主の御言葉通りでした。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)

[1] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、357頁

[2] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、359頁

[3] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、206頁

[4] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、446頁

[5] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、362頁

[6] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、366頁

[7]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、288頁

[8] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、369頁

[9] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、287頁

[10] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、449頁

[11] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、289頁

[12] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、363頁

[13] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、453頁

[14] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、376頁

[15] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、296頁

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