神のスクラップ・アンド・ビルド(造反有理とも理解できる)について学ぶ説教
「岩を砕く言葉」 ルカ12:49-53
旧約聖書の日課であるエレミヤ書に、神の言葉は火に似ている、岩を砕く槌のようだと書いてあります。岩を砕くと言えば青の洞門が有名ですね。これは九州の耶馬渓にあります。大分県の教会で牧会していた時に訪問したことがあります。それは長さ342メートルものトンネルであり、江戸時代に禅海和尚が旅で訪れた際に崖の上の危険な道から人が転落死する事故を目撃し、人々の安全を願い、ノミと槌の手掘りで30年かけて開通させたものです。計算してみると一年に10メートルくらいの速度です。一日にしたら3センチくらいのものでしょう。それにしても、岩を砕いて進む作業は並大抵のことではなかったはずです。どうにかして人を助けたいという和尚さんの優しい心が、人々の苦しみの原因だった堅い岩山をも貫いたのです。
では聖書では、神の何が岩を砕くというのでしょうか。他の部分を読むと、それは、偽りの預言者の言葉の否定という意味になっています。その当時の偽りの預言者は、平和が臨むとか災いが来ることはないといったような、人間中心の根拠のない幸せを約束していたのです。現代の社会では、政治やメディアを通して、偽りのニュースが巷に溢れています。そうした偽りを、神の言葉は、固い岩を砕く槌のように砕くのだと書いてあるわけです。ヒットラーの時代もそうでしたが、偽りは一つの時代を支配しても、永続するものではありません。ドイツの第三帝国も日本の大日本帝国も、今は昔話にすぎません。
こうした神の働きについての考えは、新約聖書のイエス様の言葉にも表れています。一般的には、イエス様は平和の使者であると考えられています。ところがイエス様の言葉を見ますと、自分は地上に平和をもたらすために来たのではないと語られています。イエス様が否定したのは、偽りの平和のことです。ですから、イエス様が真理を教えると、その教えを信じない人によって敵意や争いも生まれたのです。
大正時代に、ある青年が東大での学びをやめて牧師になりました。それに反対する父親から電報がきました。そこには「親を殺す気か」と書かれていたそうです。その青年は電報で返事を送り、「子のために親は死ね」と書いたそうです。その青年は高倉徳太郎であり、大正時代を代表する牧師となりました。それまでの親子関係の平和は偽りのものであり、罪という自己中心の考えに染まったものだったと彼は悟ったのです。宗教改革の際にも家族同士が敵対した例がたくさんありました。ルターが残した手紙の中でも、親と子が旧教と新教に分かれてしまって悩んでいる青年へのアドバイスが書かれています。ミカ書7:6にも「人の敵はその家の者だ」と書いてあるのと同じです。
しかし、どうして平和の神が、皮肉にも平和ではない状況を生み出してしまうのでしょうか。わたしにも理解しがたいことです。しかし、それは、この世の偽りの関係が粉砕され、わたしたちが主をのみ頼り、主を待ち望むようになるためのご計画ではないでしょうか。これはある面では自己否定とも言えます。しかし、自分で決断して、自分で行う自己否定は自己否定にはなりません。本当の自己否定は、わたしたちにはどうすることもできない困難な状況の絶対的な受容の中で完成します。それを成し遂げるのは、もはやわたしではなく、神なのだと心から思えるときには、絶対受容が完成しています。危機を通して、自分の存在がゼロになります。そして自己が打ち砕かれることが自己否定です。確かに聖書には、神が好まれるのは、「打ち砕かれた魂」(詩編51:19)とも書かれています。それは実は人間の古い罪、苦しみの原因を終わらせるという、神の恵みの働きです。
信仰を持つとは、神の恩寵の世界に入れられることです。自分から入るのではありません。「入信」という言葉がありますが、あれは神学的には正しくありません。自分で選んでいるからです。それは、チケットを買って、好きなコンサートに入場するのと同じです。神は、信仰の世界に人を選びだすのです。パウロもその一人でした。
パウロの人生にも多くの試練がありましたが、偶然に試練があるのではなく、神は愛する者を救うために罪を滅ぼすのです。岩をも砕く神の力がなければ、わたしたちの心の中の古い罪は死にません。今から750年ほど前に書かれた日蓮上人の佐渡御書(ごしょ)と読むとそれを少し感じることができます。その前年に鎌倉の由比ガ浜で首を切られそうになった日蓮は、不思議な奇跡によって斬首をまぬがれ、佐渡に島流しになりました。これも極刑であり一種の死罪です。11月に佐渡についた日蓮を待っていたのは塚原と呼ばれた死体を捨てる場所にあった一間四方の阿弥陀堂でした。毎日雪が吹き込む火の気のない場所で日蓮は信仰心を失わず、弟子たちが皆去っていく試練の中で佐渡御書を書いたのです。その中で偶然にも、日蓮は聖書に書いてあるように、信仰者が受けるべき試練を語っています。そして、悟りを得るために財宝を捧げることを厭わない者でも、自分の子指一本でも失おうとしないと言います。しかし、日蓮は財宝を捧げるくらいのことではなく、その身を捧げる覚悟がなければ救われないと説いています。そして世間の名誉や欲のためには身を捨てる者もいるが、救いのために身を捨てることは難しい、だから悟る人もないと述べています。ですから、救いのためなら、紙がなければ自分の体の皮を剥いで紙とし、筆がなければ自分の骨を筆とする覚悟をもって救いを求めるように説いているわけです。日蓮上人のこの信仰への姿勢を理解し、最大評価したのが明治時代のクリスチャンの内村鑑三でした。
その点を把握して、今回の福音書の箇所を再度読んでみると、いくらか理解が進みます。つまり、イエス様は世間的な平和以上のものを説いたわけです。この世の平和とは、表向きの話でしかありません。実際は人間の作った一時的な虚構に過ぎないわけです。イエス様はこの世の平和、人間の努力の結晶、人間関係、それが神によって砕かれなければ、存在の奥深くに潜む原罪が取り除かれないことを知っていました。ですから、イエス様は「あなたは、親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる」(ルカ21:16)と言っています。今回の聖書個所の、53節にある親子の対立、親子関係の破壊も同じです。人間の作った物を神のように崇拝したり、家族関係を第一とする態度が、打ち砕かれ、命の持つ本来の関係、つまり全能の神の無条件の愛が現れるときが救いの時だというのがイエス様の教えの中心でした。高倉徳太郎が経験した親子の断絶もこれでした。
しかし、こうした神と人との命の関係の再構築を、人々は受け入れなかったのです。原罪があるからです。ですからイエス様が裁判にかけられた時にも、その罪状に「神の神殿を打倒し、3日で立てる者」(マタイ26:61)とありました。また、十字架上のイエス様を嘲って人々は言いました、「神殿を打倒し、3日で立てる者、神の子なら自分を救ってみろ」(マタイ27:40)これは、人々が神のように崇拝していた人間的な価値の結晶である神殿をイエス様が否定して、神の絶対性を説いたことへの復讐でした。イエス様はこの世の偽りの平和に頼っても何も残らないから、そうなるまえに、本当の神の救いの関係に入れていただくように諭したのですが、彼らには理解できませんでした。
わたしたちの目の前にも、大切に思えるものが存在します。人によって少し違いはありますが、それらは家族、財産、健康、仕事などでしょう。しかし、それらはやがて砕け散り、消え去るものに過ぎません。過去の人生や、社会変化を観察するだけでもわかります。イエス様が投ずる火である試練は、人間の古い罪を滅ぼす裁きの火なのです。しかし、決して不幸の原因ではありません。神の救いのためのステップです。この困難に遭遇して、人間は自己の無力を痛感します。その時に神の絶対愛を知るか、それとも絶望するか、それが天国と地獄の分かれ道なのでしょう。そしてこの絶対愛に頼ることによって究極の自己否定が起こるとき、救われるのです。これが救いの奥義です。
岩を砕く神の言葉とは救いの言葉にほかなりません。しかし、わたしたちは日蓮のように教えのために命を捧げる覚悟ができている者ではありません。もっと弱い存在です。内村鑑三の足元にも及ばない存在です。こんなことは頭ではわかっていても、実際には原罪の岩を砕く神の言葉を避けて逃げ惑う者です。イエス様の弟子たちもそうでした。
しかし、それにもかかわらず罪深いわたしたちを救うために、原罪なきイエス様ご自身が岩をも砕く神の言葉に打たれ、犯罪者として十字架にかかり、わたしたちの身代わりとなって神の絶対愛を示してくださったのです。だから、人は弱くてよいのです。イエス・キリストという救い主が与えられているからです。これがキリスト教です。他の宗教では、自分が強い信仰を持たなければ救われません。
一方で、人を助けようとする禅海和尚さんの愛の精神、これはキリストの愛に通じるものがあるでしょう。コロナ禍で多くの犠牲がでていることに心が痛みますが、あるクリスチャン思想家が「自分自身に絶望する者は、神に希望を持つ者のだ」と書いています。イエス様の教えの中心とは何か。それは試練をとおして、神の絶対愛に連れ戻されることです。聖書の中の「放蕩息子」の例話がそれです。親を拒絶した高倉徳太郎は神学的には正しかった面もありますが、彼に欠けていたのは愛でした。ですから、信仰がもたらす敵対関係においても、わたしたちもイエス様のように神の絶対愛によって対応したいものです。