パウロ暗殺計画の背後にあった誤った宗教性
使徒言行録23章12節-23章35節 文責 中川俊介
パウロに対する憎しみは消えませんでした。そしてその殺意は執拗でした。彼らになんの危害を加えたわけでもないのに、何人かのユダヤ人たちは断食の誓いまでたてて、パウロの命を狙ったと12節にあります。律法を守ろうとする自分たちの利害が、実は、律法が禁じている無意味な殺人に彼らを走らせたのです。サタンに人間がとらわれわれると、自分が行っている悪には盲目となり、他者を非難する結果となります。「つまり悪魔は、パウロを殺す計画を立てていたのです。」[1] 他者の欠点を受け入れるのは福音の働き、他者を拒絶するのは神への反抗であると覚えておきましょう。それはともかく、この暗殺計画に加わったものの数は40人以上でした。「彼らは明らかに熱狂主義にたち、熱心党のような人々であり、ユダヤ教に反すると考えられるものに対しては暴力も用いたのである。」[2] 14節にあるように、彼らが祭司長や長老の所へ意見を述べに行ったということは、彼らが単に野蛮な人物ではなく宗教的な人物だったことがわかります。自分たちの行動を正当化するために、権威者の同意を求めたのです。殺すという事は排除するという事の極限です。現代の社会で、殺人は犯罪であり裁かれてしまいますが、排除は法に触れない形で堂々とおこなわれているのではないでしょうか。いじめなどもその例です。集団でターゲットとされる個人を狙い、排除しようとするのです。キリスト教はこうした排除の考えに対して、愛と寛容の姿勢を伝える必要があります。この点を皆で考えてみましょう。
15節に、暗殺者と祭司長や長老との対話が記録されています。つまり、パウロがローマ軍の兵営に収監されていては手の出しようがないので、最高法院での再尋問という理由をつけて、兵営から外に連行し、その途中で殺害しようというのです。その過程でローマ軍の護衛とも戦わなければならないでしょうが、反ローマの気持ちを持つ人々にはまるで一石二鳥だった訳です。ひいていえば、こうした憎しみが起因となって十数年後のユダヤ戦争となり、エルサレムは壊滅したのです。憎しみは憎しみで終わり、混乱を助長します。「これらは、まさに人間の混乱状態にほかなりません。そして、この混乱の中に、神の摂理が働きます。」[3]
その陰謀は受理されたと思われます。「彼らは、大祭司も教師たちも、彼らに短剣を突きつけるこの熱狂主義にあえて反対しないことを知っていたのである。」[4] 力ある者が一時的には勝つのです。しかし、集団というものは秘密を守りきれない面を持っています。最高法院の中にはファリサイ派の人々のようにパウロを支持する者もいたことでしょう。その証拠に、16節にあるように、パウロの姉妹の子が耳にし、兵営の中にいたパウロに知らせたのです。「ルカは、この陰謀をどのようにしてパウロの甥が知ったかを読者に明らかにしていない。」[5] こうした行為が許されていたということは、パウロがもはや犯罪人扱いを受けていなかったことの証拠です。また、当時は留置されている者に対する面会も許可されていたようです。そこで、この甥はパウロに直接会って陰謀を伝えたのですが、パウロは彼にこの事実を千人隊長に伝えるように段取りしました。パウロは、主の為ならばいつでも命を捧げる覚悟でしたが、この場面では神の摂理を信じ、こうした陰謀には負けない毅然とした態度をとったことが分かります。パウロはローマへ行って福音を伝えることが自分にたいする神の御心だと確信していたのでしょう。面白いことに、パウロは千人隊長への仲介をした百人隊長には陰謀の事をまったく話しませんでした。パウロは、話すべき人とそうではない人を峻別していたといえます。わたしたちはどうでしょうか。話の内容にもよると思いますが、この点について話し合ってみましょう。
パウロは集団の中での情報伝達がいかに複雑であるかを熟知していました。千人隊長も同じでした。やはり、民族や言語、立場が違っても多くの人を統率するには細心の注意が必要なのでしょう。19節にあるように、千人隊長も仲間である百人隊長に事実を知らせようともせず、パウロの甥の手をとり人のいないところに連れて行き話を聞いています。そこで、パウロの甥は、暗殺者と祭司長たちの間でかわされた密約を暴露しました。パウロの甥は状況をかなり正確に把握していました。暗殺団に加わった人数までも知っていたのです。察しの良い千人隊長ですから、この陰謀はローマの護衛兵との戦闘になることはすぐに判断できたでしょうし、そのことがエルサレム駐屯兵にあたえる少なからぬ影響を予知することができたわけです。何故、この若者を千人隊長が信頼したのかはわかりません。しかし、この情報を得た千人隊長はパウロの甥に口止めをして帰しました。非常に賢い判断だったことが分かります。これは筆者であるルカの特徴かもしれませんが、パウロの人生の決定的な瞬間に、神が公正な異邦人を用いて彼を助けています。そこには、万物を通して働く創造主としての神への深い信頼が見られます。これを現代に敷衍しますと、わたしたちがクリスチャンではなく異教徒に助けられ、異教徒から学ぶことも神はよしとするという事です。それこそが主の与える真の謙遜という事ではないでしょうか。イエス様はローマの百人隊長の信仰を褒めたこともあったと、福音書には書かれています。この点について考えてみましょう。
千人隊長の決断は迅速でした。翌朝まで待っていたらどうでしょうか。ユダヤ最高法院からパウロ再尋問の要請が来てからそれを拒否するのは政治問題となります。その命令に従うならば、襲撃で部下の兵卒を失い、エルサレムでのローマ軍の失策となります。わたしたちなら二者択一で悩んでしまうところです。ところが、千人隊長は23節にあるように、パウロの甥の話を聞いた直後に行動に移り、その夜のうちに合計470名もの兵を動員し海岸地帯にある要塞都市カイサリアへと出発させました。「これはエルサレム駐屯部隊の約半数にあたる。」[6] この行動力には目を見張るものがあります。おそらく、100名程度の護衛では決死の覚悟をしたユダヤ人暗殺集団には十分ではないと判断したのでしょう。「兵隊の選択は、地形の状況や、このような夜の行進においてそれにともなう危険に応ずるものであった。」[7] 24節には馬を用意してパウロを乗せたとありあります。当時、ローマ軍で馬に乗るのは将校たちのような地位の高い者でした。このことからも、千人隊長がローマ市民であるパウロをいかに丁重に扱ってくれたかがわかります。そして、総督の駐在するカイサリアに向かったのです。
27節を見ると、この千人隊長が総督フェリクスに書いた書状の内容までが記録されています。「この手紙は当時に用いられた公文書の書式をありのままに反映している。」[8] ルカがどのようにこの内容を入手したのかは不明です。ただ、その書状の中でも千人隊長リシアは、パウロがローマ市民であることを強調しています。ただ、その出来事の順番は違っていて、千人隊長の利益に働くように改変され、「ローマ市民だから暴徒から救った」という形になっています。「千人隊長には千人隊長なりの動機や打算があったにしても、それを背後にあって動かし、導いておられた方があったのです。」[9] 人間の打算でさえ、神は御心の成就のために用います。また、逮捕の後の最高法院での尋問等のできごとも報告しています。そして、千人隊長リシアが下した判断は、パウロが犯罪者として扱われる理由はなく、投獄も不適切であるという事でした。すべては、ユダヤ教内の宗教的内紛だというのです。30節では陰謀に対する告知にも触れています。危険なエルサレムで物事を処理するのではなく、安全なカイサリアにパウロを移送し、そこで地域での最高権威者である総督フェリクスに判断を仰ぐということは賢明だったと思います。ただし、「このペリクスという人は、残忍で強欲な政治家であるといわれています。」[10] 彼は卑しい身分から高い位によじ登った人物としても知られています。「アントニウス・フェリクスは紀元52年から59年までユダヤの総督であった。」[11] また、タキトスという歴史家は、フェリクスを風刺して、奴隷の心で王の権威を振るった人である、と書いたそうです。一方、千人隊長はこうした人物であることを十分承知のうえで、何か告発があるならば、総督に直接申し出るように手筈をしたのです。こうした、手順を見ても、当時のローマ軍が一人のローマ市民の生命をも丁重に扱っていたことが分かり、ローマ軍の中での規律が整っていたこともわかります。ローマ帝国の支配は長く続き、パックス・ロマーナ(ローマの平和)と言われましたが、こうした秩序の中に安定が保たれたのだと思われます。この部分は、信仰とは無関係に見える部分ですが、もっと広い視点では、神の与えた社会秩序がパウロを守ったことになったと解釈できるでしょう。「歴史の背後にあって、歴史を動かしておられる神がおられるということです。」[12] 激動する現代社会にあっても、わたしたちはこの信仰にたつ必要があります。ルターはかつて宗教裁判にかけられたとき、締めくくりの言葉として「我ここに立つ」と述べたと伝えられています。キリストの救いを堅く信じ、泰然自若としていたのです。
31節では護送の道程が詳しく書かれています。夜の9時にエルサレムを出発した部隊は、その夜のうちにアンティパトリスまで行きました。この町の名前からして、ローマ軍の砦のようなところだったのでしょう。ここは、エルサレムの北西60キロぐらいの平坦な場所にありました。「アンティパトリスはカイサリアの南40キロのところにあった。」[13]そして、そこで夜を明かし、翌日、470名もの兵の大部分はエルサレムに戻り、パウロは騎兵に護衛されてカイサリアに行きました。カイサリアは海岸地帯の平地にありますが、エルサレムからの途中の道のりは山岳地帯であって、ここを夜間に通過するにはゲリラの襲撃などを防ぐためにも多くの護衛兵を必要としたのでしょう。また、おそらく、アンティパトリスからカイサリアまでは道も平坦なので馬で走り抜ける方がより安全だったのでしょう。非常に戦略ということを考慮した道のりだったわけです。そこにも、千人隊長の思慮深さが反映しているのかもしれません。千人隊長は特に信仰を持っていたわけではありませんが、彼の慎重さによってパウロは危機を脱出できました。一方で、エルサレムの教会の人々も、パウロのために祈っていたに違いありません。「読者はここで、ローマの権威者たちを通して神の意志が実現していくのを知り始めるのである。」[14] わたしたちが思慮深く生きるにはどうしたらよいのかを皆で考えてみましょう。
34節以下には、総督フェリクスが千人隊長の手紙を読んだ後のパウロとの会話が出ています。総督は、パウロがキリキア州の出身であることに興味を示しました。そこはローマの支配下にあったからです。他の場所の場合には彼が裁きの権利を持っていないこともあったのです。そして、その場で判断することは避け、エルサレムから最高法院の告発者がきてから裁くこととしました。そして、パウロはヘロデの官邸に留置されることとなりました。
[1] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、320頁
[2] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、367頁
[3] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、320頁
[4] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、294頁
[5] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、209頁
[6] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、369頁
[7] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、295頁
[8] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、370頁
[9] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、389頁
[10] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、321頁
[11] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、462頁
[12] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、386頁
[13] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、372頁
[14] 前掲、 P.ワラスケイ、「使徒言行録」、211頁