印西インターネット教会

存在の耐えられない軽さー直葬と国葬の差

コロナ禍で葬儀の様子が大きく変わってきています。わたしも学生時代に葬儀社でアルバイトをしたことがあるので、いろいろな葬儀の形態を知っていますが、それにしても、昔の葬儀は盛大にしたものです。葬儀費用もかなりのものでした。葬儀社もそれで運営できたものです。ところがどうでしょうか。コロナの影響で、大規模な集まりは無理となり、家族葬が主流となる現在です。なかには、火葬場で親族がお別れするだけの「直葬」といわれるものまで登場しています。こうなってくると、葬儀差の存続も困難になってくるでしょう。やがては、死者を見送る人々の集まりも無くなり、ただ火葬して終わりということになるかもしれません。そして、そこには、これまで葬儀と深い関係をもってきた「宗教」というものが不在なのです。宗教の影響力が減るという背景には、人間の存在の意味が薄れ、単なる器具に過ぎなくなっているということが意味されています。そして、誰もそれを問おうとはしません。昔の作品で、「存在の耐えられない軽さ」という映画がありました。その内容はともかく、この映画の題は、まさに来るべき未来を予告しているようなものだったと思います。なぜなら、一般人の存在意義が薄れていく一方で、安倍元首相の国葬などの話が出てきているからです。下級国民は壊れた電気器具とおなじに廃棄するだけ。一方で、上級国民は国家総動員でその葬儀を行うという誠に理解に苦しむ不平等な社会が台頭しています。そして、それに疑問を持つ人が少ないのです。これもまた、「存在の耐えられない軽さ」ではないでしょうか。聖書の逸話のなかでは、金持ちの献金を貧しい寡婦の献金の話がでています。イエス・キリストは金持ちたちがたくさんの献金をささげるのを見ていました。すると、貧しい寡婦が銅貨二枚をささげました。そこで言いました、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(ルカ福音書21章3節以下)神の絶対愛においては、上級国民も下級国民もないことが明らかです。それだけでなく、「存在の耐えられない軽さ」というのはわたしたちの肉的な眼で見た主観性による判断であり、神のまなざしにおいてはすべての人が同等の存在価値が与えられています。それを明らかにしたのがイエス・キリストです。ですから、イエス・キリストを信じるということは、すべての存在の平等の価値を信じることであり、この世でどれほどいじめられ、軽くあしらわれても(つまり十字架)、神の絶対愛においては、私たち自身が大切な神の子だと確信することなのです。

モバイルバージョンを終了