パウロの時代にキリスト教はナザレ人(蔑称)による(ユダヤ教)分派と考えられて迫害された
使徒言行録24章1節-27節 文責 中川俊介
カイサリアに到着したパウロにはまた新たな試練が待ちかまえていました。エルサレムでの尋問の機会を失ったユダヤ人社会の権力者たちは、パウロ暗殺の密約の失敗を恥もせずカイサリアにやってきました。今度は暴力によってではなく、法的にパウロの罪を立証し、パウロを犯罪者として処刑することを目的としたのです。そのために、1節には長老や祭司長が弁護士を同伴したとあります。「老人の大祭司がこの長い旅をしてまで、ここへやって来たということは、彼がどんなにこの問題に身を入れていたかということがわかります。」[1] また、ローマ市民であるパウロを証拠もなしに有罪にするのは簡単ではなかったのでしょう。ただ、その当時の総督であったフェリクスは公平な人間ではなかったようです。
パウロに対する告発は、長老や祭司長からではなく、弁護士のテルティロが担当しました。「テルティロはユダヤ法とローマ法に精通していたが、おそらくユダヤ人ではなかったかも知れない。」[2] ここでも、ローマ政府の権威者である総督の前で、彼らは慎重に物事をすすめようとしたことがわかります。そのテルティロの告訴は、総督へのへつらいとも思われる感謝の言葉の羅列から始まりました。「この種の表現は、権威者に語りかける時には適切であると中近東では考えられていた。」[3] ただ、その中で述べられている「改革」とは何でしょうか。興味あるところです。「しかし、これらの人々のためにどのような改革がなされたかを特定することは困難である。」[4] そして、4節以下からがパウロに対する訴えとなります。「ユダヤ人側の弁護人は、まず総督に、丁重なお世辞を言います。おべっかか、へつらいに近い言葉でペリクスを持ち上げます。しかし、真理に立つ者は、決しておべっかを使いません。」[5] こうした外面的な丁寧さと、物事の真実に関して皆で考えてみましょう。
テルティロによれば、パウロは「疫病のような男」でした。それは、彼の風評であるので、ローマ政府に危害を加えるものではありません。しかし、世界中のユダヤ人の間に騒動を起こしている元凶であるという点は聞き逃すことが出来なかったでしょう。たとえ、問題がユダヤ教の神学的問題や生活習慣のことであっても、それがローマ帝国内の治安が乱されるならば、大きな問題です。「これは具体的な事例を訴えたものであったが、その証拠に欠けていた。」[6] ここで、パウロの信奉するキリスト教は「ナザレ人の分派」と呼ばれています。ユダヤ教の分派とは考えたくもなかったのでしょう。それに、ユダヤ人の間では、辺境の地ナザレは格下の場所であり、「ナザレ人の分派」という表現にさえ侮蔑の意味が込められていたのです。ちなみに、キリスト教がナザレ人の分派と呼ばれるのは、イエス様がナザレ人と呼ばれたのを除いては、この個所だけだそうです。
テルティロの告訴にはさまざまな嘘が含まれています。人間が権力の擁護に走ると、悪魔の手先となってしまいます。6節にありますが、パウロが神殿を汚そうとしたので権威者が逮捕したのではなく、アジア州から来た人々でパウロに怨みを持っていた人々が騒ぎを起こしたのがきっかけでした。「神殿や神社を汚すことは、ローマ法に反することであり、厳しく処罰され、死罪が適用された。」[7] 暴動の発端は自分たちの側にあったのを隠ぺいしているわけです。それに、パウロを逮捕したのはローマ軍であって、ユダヤ人たちはパウロを撲殺しようとしただけです。ただ、テルティロの論述の巧妙な点は、自己主張するだけではなく、総督の顔をたてて、総督の判断にお任せしますと結んでいるのです。「裁くことは、帝国のどこでも総督の義務であって、とりわけ、ユダヤ人の共同体には、その宗教を妨げずに弘めることが、ローマ法によって保障されているからである。」[8] また、同席した他のユダヤ人たちも同じように訴えました。パウロは一人でしたから、圧倒的に不利な立場に立たされたわけです。しかし、すべてにおいて神の導きを信じるパウロには怖れるものはなかったでしょう。わたしたちが同じ境遇ならどうでしょうか。
次に、パウロの弁明が始まります。10節にあるように、総督はパウロの発言を求めました。パウロは、総督フェリクスが長期にわたって裁判を担当していることに感謝し、暗に公平な審判を求めています。パウロは事実の確認から始めました。主観的な意見は各自でまちまでしょう。大切なのは事実です。五旬祭をエルサレムで迎えるために長距離を旅したパウロが、エルサレム市内にいた期間は11節でパウロが述べているように12日でした。その短い期間に、パウロは誰とも論争していなかったのです。エルサレムは新しい伝道地でもないし、パウロの目的は別だったと言えるでしょう。「彼は伝道のためにエルサレムに行ったのではなかった。」[9](ガラテヤ2:7以下参照)そこで、13節においてパウロは問題提起し、パウロが人々を扇動した証拠は全くないのだと言いました。
そして、14節から、パウロ自身の説明が始まります。パウロは自分の論点を強調しています。告訴しているユダヤ人が「分派」として非難しているパウロは、皆と同じように神を礼拝し、律法を守り、預言書を信じていると述べました。つまり、「分派」というレッテルは彼を嫌う人々の主観的な批判にすぎず、パウロ自身は伝統的な信仰観に立っているユダヤ教徒であるというわけです。15節には、ファリサイ派の人々が信じていた復活思想について述べられています。そこで、パウロは長老や祭司長たちをさして、彼らも復活の思想を持っていると述べています。つまり、自分だけが特殊な信仰を持った「分派」なのではないと言うのです。そして、16節で、パウロは責められるようなことは何もしていないと述べました。そして、パウロはエルサレムを訪問した理由は、同胞に救援金を渡し、神殿に供え物を捧げるためだったと17節で述べています。つまり、議論やユダヤ人を改宗させようという意図はなかったということです。「彼は異教の国からきたから、犠牲を捧げるために必要な清めの儀式を、秩序に従って受けた。」[10] それも、数年ぶりに来ただけなのです。そして、18節に出ているように、騒乱があった当日、パウロはユダヤ教の慣習に従って神殿で供え物をしたわけです。問題を起こしたのは、19節にある数人のアジアから来たユダヤ人でした。彼等こそアジアでパウロの命を狙っていた人たちなのです。ですから、彼らが自ら告発すればよかったというのです。「最初の告発者が不在なのであるから、パウロは、議論を現在の告発者の持っている情報に限定するようにフェリクスに求めた。」[11] エルサレムの人々はアジアから来た少数の者たちに扇動されただけだったのです。彼等にはアジア州で起きたことを訴える権利はないのです。ここに問題の発生の仕組みが見えるようです。誰かを攻撃のターゲットとして扇動する方法です。この点について皆で考えてみましょう。
パウロは、さらに論を進め、20節では、エルサレムで持たれた最高法院での尋問のさいに、結論的には不正は明らかにされず、ファリサイ派とサドカイ派との間の復活論争に終わったことを述べます。パウロは死者の復活、特にイエス・キリストが預言書に書いてある通り復活したと信じたことによって、分派扱いされ、あるいは疫病のように嫌われていたわけです。パウロはユダヤ教徒であり、本当の分派は、復活を信じないサドカイ派だったのです。キリスト教徒は、パウロと同じようにユダヤ教徒でありうるという事がここで読み取れます。これは、現代のわたしたちにも重要なことです。イエス様も純粋なユダヤ教徒であったからです。だだ、パウロはそうした、理不尽な暴力をフェリクスに訴えることはありませんでした。「パウロが、法も裁判もなしに殺されようとしたことなど、パウロは語らなかった。彼は、自分と全キリスト教界の正義のために、あらゆる配慮をしつつ戦う際にもまた、人をゆるすことを知っていた。」[12]
そこで、総督フェリクスは結論を先に延ばすことにしました。22節にあるように、フェリクス自身はキリスト教について詳しく知っていたようです。そして、パウロがエルサレムで保護された千人隊長リシアを呼んで、さらに事情を調べてから判決を下すことにしました。フェリクスは評判のよくない人物ではありましたが、低い身分から出世したような人でしたから、慎重さを備えていたと思われます。パウロを告訴していたユダヤ人たちは歯がゆい思いをしたことでしょう。「パウロがキリスト者だからといって、法の保護を停止し、無法に扱う権利は、ユダヤ人にはないのである。」[13] そこで、パウロはカイサリアの要塞都市内に軟禁されることとなりました。捕縛されているとはいっても、囚人扱いではなく、友人たちの来訪は許可されていたのです。おそらく、この際に、ルカたちはパウロから事の成り行きを聞き記録にとどめたのでしょう。これも、神の采配ともいえることでした。困難の中にも恵みは隠されています。
24節以下では、総督フェリクスとパウロとの個人的な関係が述べられています。当時の上層社会では、貞操かつ聡明で美しいユダヤ人女性を妻とすることがステイタスシンボルのように考えられていました。その背景もあって、異邦人のフェリクスは、ヘロデ・アグリッパI世の末娘のドルシラと結婚していたのでしょう。このフェリクスは妻のドルシラを同席させたうえで、パウロの信仰について聞くことにしました。「ウェスタン写本によれば、パウロとの会見を切望したのはドルシラであった。」[14] 個人的にキリスト教に興味を持っていたのかもしれません。ところが、25節にあるように、パウロが神の前の正しさとか最後の審判について話すと恐怖を覚えました。パウロが何故、福音的な贖罪の話ではなく、厳しい審判の話を彼にしたかは疑問です。パウロも相手を見て語るべきことを変えていたと思われます。あるいは裁きから赦しの順が妥当でしょうか。フェリクスは前述したように、奴隷の身分から高貴な職に就いた人ですから、その過程でさまざまな悪に手を染めていたと考えられます。ドルシラにも複雑な過去がありました。「ドルシラは、父が殺した使徒ヤコブのことや、父が投獄したのに、ついに脱獄してしまったペテロの不思議な事件や、父の非業の死などから、彼女の心には、何か深い求めがあったろうと思います。」[15] ですが、義についてのパウロの話は聞きにくかったのでしょう。しかし、パウロのような者からも金をもらおうとして、その後、何度も呼び出していたとルカは書いています。「ルカはわたしたちにとっては些細な事柄も記録しているが、それは、一世紀の読者たちには、より大きな社会政治的な背景を知る重要な事柄であった。」[16]
それから、2年の歳月が流れました。その間の出来事は何も記録されていません。パウロの弟子や同労者は彼を訪問し、それまでの出来事を確認し、この間に使徒言行録の骨格が出来たのかもしれません。神にあって無駄な時間はないはずです。総督にも任期があって、フェリクスから新しい総督のフェストゥスに代わりました。フェリクスはカイサリアで起きた暴動の責任を追及されて失脚しました。その後任の、フェストゥスはユダヤ人を刺激することを怖れてパウロの監禁を続けました。パウロが念願のローマに行って福音を伝えるまではまだ時を待つ必要があったのです。
[1] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、396頁
[2] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、374頁
[3] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、446頁
[4] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、214頁
[5] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、325頁
[6] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、375頁
[7] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、215頁
[8] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、298頁
[9] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、377頁
[10] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、302頁
[11] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、216頁
[12] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、303頁
[13] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、301頁
[14] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、472頁
[15] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、406頁
[16] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、218頁