印西インターネット教会

この世の価値観が転換するときに喜びが生まれることを学ぶ説教

「兄弟姉妹を憎むとは?」  ルカ14:25-33

聖書の説明書は、註解書といいます。ほとんどの註解書は、今日の日課の、親兄弟を憎みなさいというイエス様のお言葉は難解だといいます。何回読んでも難解です。イエス様は汝の敵を愛せよと教えた方です。それに、ユダヤ人が最も大切にしてきたモーセの十戒の第四戒に父母を敬えとあります。

その前に、大勢の人が、イエス様についていったことに着目しましょう。今でも、有名人にはたくさんのファンが押し寄せます。今も昔も変わりません。ある面で、こうした大勢の人たちは、イエス様のお言葉や奇跡に引き寄せられたと言えるでしょう。その活動に魅力を感じていたわけです。ただ、そういう人は、自分自身が、魅力あるものにどうしても惹かれてしまうという欲望に従っているだけなのに気付いてはいないでしょう。人間の優先順位のトップは自己の欲望です。美味しいラーメン屋に列ができるのも、有名な教授の講演会に人が並ぶのも、そこからなにがしらの欲望の満足を得たいからです。しかし、もし満足が得られなくなったら、群衆はたちまち去って行くでしょう。彼らの優先順位のトップは自己の欲望の満足ですから、ふたたび新しいアイドル、つまり肉的な偶像を求め続けていくでしょう。

そうした人間の運命をイエス様はよく知っていました。だから、イエス・キリストの弟子であることは、アイドルを追いかけるのとは違うと教えられたのです。それは、自分に都合のよい人生を選び取ることではありません。自分の欲望を満足させることでもありません。この世のものとは違った優先順位があると教えようとされたのです。

そこで、当時の社会では最高の優先順位であった、モーセの十戒の中の第四戒に触れたのです。親子兄弟の関係は、今のように社会保障がない社会では、まさに生命の保証でもありました。生きていくのも助け合いによってのみ可能でした。食べたいものがあったら、お金をだしてコンビニで買える時代ではなかったのです。それに、モーセの十戒では、一から三までは神に関する教えになっています。四から十までが社会生活に関することです。ただ、ここで、ギリシア語の原典をみてみますと「憎む」という言葉である「ミセイ」の元々の意味は「より少なく愛する」なのです。つまり優先順位から言えば、命の絆である家族も、神の先になってはいけないという意味です。神こそが十戒の第一であり、最優先順位のトップなのです。そして、神の子イエス・キリストに従う弟子は、神に従うのであるから、それを、自分の欲望の満足と同次元に考えてはいけないわけです。

例えば、詩編45は結婚の比喩で、メシアの到来が語られています。そこの11節に「あなたの民とあなたの父の家を忘れよ」と書かれています。わたしは九州の別府教会で6年間働きましたが、九州の古いしきたりで、結婚式の朝には、花嫁は家族と朝食をとり、その後に自分のお茶碗を割る習慣があると聞いたことがあります。これは、慣れ親しんできた自分の家族、思いでがいっぱいの家族を忘れて、結婚先の家族に優先順位を移す象徴だと思います。

今回の旧約聖書の日課である申命記29:3には、イスラエルの民は奇跡を見たが、神は彼らに悟る心を与えなかった、と書いてあります。民衆の心の優先順位が神に向いていなかったわけです。ですから、出エジプトの40年間の砂漠での苦しい生活を通して、神を悟らせようとしたのだと書いてあります。

弟子は多ければ多いほどいいに決まっています。新興宗教などはその会員数を誇りとしています。勢力がイエス様の宗教活動を支えるエネルギーであると考えた弟子たちは「もっと増えろ、もっと増えろ」と心の中で叫んでいたに違いないでしょう。ところがイエス様は父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分自身の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ないと断言されたのです。これは、きっと受け入れがたい考えだったと思います。特に当時の人にとって家族との繋がりを絶つということは、生きていくためのネットワークを失うことであり、土地を失うことでもありました。それはとても大きな犠牲です。しかし、それほど重要な繋がりを憎めということは、「もっと価値のあるものが与えられている」ということでもあります。

宗教改革当時に、プロテスタントに改宗した青年が悩んで、ルターに相談した手紙が残されています。その中で彼は、このまま、プロテスタントの教会に所属しているなら、財産分与はしないとカトリック教会員の親が責めてきたと書いています。それに対して、励ましの返事を書いたルターは、文の最後に「あなたにはキリストで十分です」と書きました。それが、ルター自身にとっても優先順位のトップだったわけです。神が第一ということでした。だから、ルターは裁判にかけられて、死刑判決がくだることも恐れなかったのです。

ではなぜ、それほどまでに神様を愛し、神様に感謝するのでしょうか。その理由は、わたしたちより先に、また、わたしたち以上に、まず神様がこのわたしたちを、とても大切に思い、選び取っておられるからです。そして、原罪によって、本当の優先順位を見失い、目先の欲望に振り回されているわたしたちを、なんとか救おうとされているのです。神を第一にして己を捨てた十字架とは、まさにこの神の優先順位に他ならないのです。茶碗を割るのももったいない気がしますが、十字架とは、親が愛する子を手放して別れのハナムケとしたのと同じです。古いものに執着することが原罪であり、原罪があっては自由ではなく救いもありません。それだけでなく、原罪がある自分を原罪がある人が捨てることはできません。救いは、自己の外側から来るべきなのです。捨てがたいものを神様が捨てて下さったというのが十字架における神学の奥義です。つまり、それほどまでに神様はこの罪深いわたしたちに絶対愛を示してくださったということです。少なくとも、自己の罪を鋭く自覚していたパウロはそう感じました。しかしながら、わたしたちの多くは、その絶対愛の恵みを感じ取ることができません。感じ取ることができないので、毎日の生活の中で欲望の充足ができないことに腹を立て、不平に満たされてしまうのです。これは、原罪の結果です。欲望の充足、つまりエデンの園のおいしそうな木の実、感覚の満足を、優先順位のトップにしている姿です。すべて知ってくださっている神様が存在していることを忘れて、誰も分かってくれないとぼやいてしまうわけです。

使徒パウロは「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と断言しています。彼は、最も大切なことがなにだか知っていました。神における真実を悟っていたのです。モーセは、原罪で頭がかたくなになった民を40年間悟らせようとしましたが、うまくいきませんでした。ところが、新約聖書の時代には、イエス様の十字架と復活の後に多くの人が悟ったのです。パウロもその一人でした。

最後になりますが、「自分の持ち物を一切捨てないでは、だれ一人として、わたしの弟子ではありえない」とイエス様がおっしゃるとき、これはイエス様の十二弟子にだけ当てはまると思いがちです。しかしそうではありません。これはすべての人に語られていることです。イエス様は時に過激なことをおっしゃるので驚かされますが、このことばの真意は、自分の生きる根拠を何に置くのかということとして理解できると思います。存在の根底です。それを、神の子イエス・キリストに置くか、財産に置くか、という問題です。弟子とはキリストに人生の根拠を置く人です。そしてキリストに根拠を置く限り、財産には置けないのです。二股はできないわけです。例えば、新幹線に乗るときに仙台行きに決めたら、同時に大阪行きには乗れないのです。人生の根拠とはそのようなものです。二者択一ともいえるでしょう。あれもこれもではなく、あれかこれか、です。

神に生きるとは、自分を出発点に考えてはいけないということです。ニュアンスとしては、「神さまにお返しする」と表現したほうがピンとくるかもしれません。持ち物を「捨てる」としてもゴミ箱に捨てるわけではありません。そもそも神さまから戴いたものなんだから、全部神さまにお返しするのだと考えたら良いでしょう。

わたしたちは、本来無一物であり、自分の所有するものは何ひとつありません。この世のものは自分の「持ち物」ではありません。もし、そう思いこんで握りしめていたら、自分が滅んでしまいます。握りしめずに離しなさい、そうすれば、あなたには最高のものが与えられますよ、というのが福音です。そして、わたしたちの良き範例として、十字架上ですべてを捨ててくださったイエス様が、救いの第一人者なのです。死によって死を超越され、復活されたかたです。

神を優先順位のトップとして生きるのが、キリストの弟子です。イエス・キリストご自身もそうでした。神は愛であると聖書に書いてありますので、神を優先順位のトップとして生きるということは、何があっても愛を優先させて生きることです。わたしたちは既に弟子になって絶対愛に生きているわけではありません。しかし、神の絶対愛によってわたしたちも絶対愛の弟子になれるはずです。

詩編45には御子に結ばれることは、喜びの油が注がれることだと、預言されています。御子イエス・キリストに結ばれることは十字架でもありますが、その困難は、実は恵みです。イエス様は、イエス様を救い主として信じる者を、神を第一とする喜びの世界に招いてくれているのです。印西インターネット教会はそれを伝えようとしています。

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