印西インターネット教会

聖書の歴史に興味がある方にはぜひ読んでほしいパウロの冤罪事件

使徒言行録25章13節27節   文責 中川俊介

パウロは皇帝に上訴したいとフェストゥスに申し出ました。カイサリアではユダヤ人の影響で公正な裁判は期待できなかったし、ローマに行ってキリスト教の証しをするのがパウロの願いだったからです。「パウロは、全く思いもよらない仕方で、ローマに行くことになりました。つまり未決の囚人として行くのであります。」[1](ローマ1:15参照)これも神の摂理といえるでしょう。さて、そのパウロの願いのあと、数日してから、アグリッパ王がカイサリアに来たと13節にあります。「アグリッパ二世は12章で出て来るヘロデ・アグリッパ一世の子であった。」[2] 彼の曽祖父はキリスト誕生の際に幼子を虐殺したヘロデ大王です。その子供がヘロデ・アンティパスでイエス様の処刑の際のガリラヤの領主であり、彼の異母兄弟のアリストブロスがヘロデ・アグリッパ一世の父でした。アグリッパ二世の親が紀元44年に虫に咬まれて死んだときに彼はまだ17歳だったので、すぐに即位はできず、紀元48年になってから小さな領地を与えられました。彼は、特に裁判のために来たわけでなく、一歳年下の妹のベルニケと共に新任のフェストゥスに表敬訪問したということでしょう。このベルニケは美人だったことで知られていますが、最初の結婚相手が自分の伯父にあたる人で、その死後、兄のアグリッパ二世のところに身を寄せ夫婦のような生活をしていたことで知られています。「ルカは、ここで二人の悪名高き人物を読者に紹介している。」[3] その後、彼女はローマ皇帝ティトゥスの愛人となりクレオパトラの再来とも言われましたが、ユダヤ戦争以後のローマ市民からの反感が強くティトゥスは結婚をあきらめたことが伝えられています。以前の総督フェリクスは、同じくヘロデ・アグリッパI世の末娘のドルシラ、つまりベルニケの妹と結婚していました。さて、アグリッパ王とその妹のベルニケは、挨拶が終わってもカイサリアを去ろうとしませんでした。フェストゥスはそこに何かの意図を感じたのでしょう。そこで、パウロの件を相談することにしました。「アグリッパ二世はユダヤ教に関する権威者として知られており、フェストゥスはローマに報告書を書くにはこの人物の助けを借りるのが最善であると判断したのであろう。」[4] そして、フェストゥスはアグリッパ王に対してパウロを囚人として紹介しています。それも、自分の判断によるのではなく前任者フェリクスの残していった問題だというのです。

15節で、フェストゥスはアグリッパ王にこれまでの経過を説明します。パウロの身柄の責任を引き継いだのがフェストゥスですが、彼がエルサレムに行くと、このパウロが宗教上の問題で危険視されている人物だとわかりました。ただ、パウロに関しては彼がローマ市民権を有する知識人であるという事で、簡単に判断を下せないという問題もありました。ユダヤ人の意向を優先すれば、パウロに死刑判決を出すべきでしたが、それではローマ法に反する過ちをおかすことになります。いわば、フェストゥスは板挟みの状態だったのです。そこにたまたまアグリッパ王が来たものですから、彼を利用してこの事態を打開する道を考えたのでしょう。フェストゥスによれば、パウロの有罪の件は祭司長やユダヤ人長老たちの要求であって、事実に基づいた判断ではないことになります。それを彼はアグリッパ王に理解して欲しかったのでしょう。確かにそのフェストゥスの意図は16節にはっきりと書かれています。それまでの裁判のプロセスというものは、ローマ法を知っている者にはいかにも不正な冤罪事件であり、被告には弁明の機会も与えられていなかったのです。「この場面の全体的な効果というのは、ローマの法秩序の正しさをユダヤの偏見や不正と対比させることである。」[5] ただ、ここで不思議なのは、ユダヤ人であり、既に状況を聞いていたであろうアグリッパ王に何故このような説明をしなければならなかったかという点です。宗教的権威であった祭司長、そして政治的権威であった最高法院議員とは別の権威であったアグリッパ王を自分の理解者としたかったのでしょうか。「アグリッパ二世は、大祭司を任命する権利、および神殿の監督をゆだねられ、それによってエルサレムと全ユダヤ人とに職務上の関わりを持っていた。」[6] そして、17節では、祭司長や最高法院議員たちが圧力をかけてきたので、フェストゥスはやむを得ずカイサリアで法廷を開いたと述べられています。「ルカはここでフェストゥスの実直さと彼の前任者であったフェリクスの怠惰を対比している。」[7]

18節には、その法廷の様子が書かれています。フェストゥスが観察したところによると、何も罪状はなかったことになります。勿論、エルサレムから来た者たちは様々な訴えをしたわけですが、フェストゥスの目にはそれは単にローマ帝国内で公認されていたユダヤ教内の誹謗中傷の程度にしかうつらなかったのです。フェストゥス自身は、何らかの有罪案件を予想していたようですが、それは全く述べられていなく失望したわけです。19節に書いてあることは、フェストゥスの見たパウロの見解であって興味あるところです。つまり、パウロは死んでしまったイエスという人が生きていると述べているがゆえに、宗教上の批判を受けているのだと言うのです。ユダヤ人側では、神殿冒涜罪とか反律法の教義とかを問題にしていたのですが、フェストゥスはそれに惑わされず、問題の根源は「イエス・キリストの復活の福音」にあることを見抜いていました。この点は現代では、裁判で争われるような事柄ではありません。しかし、この点がどれほど大切なのかがどれほど多くの人に理解されているでしょうか。

20節では、その後の経過が説明されています。それは、何故パウロがエルサレムに連行されないで、なおカイサリアに軟禁されているかという事です。フェストゥスはパウロにエルサレムでの裁判を勧めたとあります。これはユダヤ人の手前、エルサレムにパウロを連れ戻さなかったのはパウロ自身の判断によるものであり、ローマ法に基づくならばその要望を無視することはできなかったという一種の弁解です。それが21節以下にあります。パウロがこの件をローマ皇帝に上訴したので、自分の役割はパウロをローマに護送するまでの間、カイサリアに収監しておくことだというのです。

そこまでは、黙って聞いていたアグリッパ王がここで発言しました。その言葉は、権威主義的なものではなく、個人的にパウロの意見を聞いてみたいという事でした。それは、フェストゥスが述べた「イエス・キリストの復活の福音」に興味を持っていたからでしょう。「アグリッパはキリスト者の信仰について教えられていた。おそらく前々から、パウロについても多くのことを聞いていたであろう。彼の領地においても、キリスト教は、広まっていた。」[8] イエス様が十字架上で処刑されてからすでに20年以上経過していましたが、イスラエル国内や他のローマ帝国諸国でクリスチャンたちの働きが知られていたのだと思います。22節でフェストゥスはすぐに反応し、すぐ翌日にパウロとの面会を設定しました。フェストゥスの行動の速さには感心させられます。

23節にアグリッパ王と妻のベルニケがパウロに謁見した状況が描かれています。「これはルカ21:12の預言の成就である。」[9] ここで「弟子たちが王や総督の前に引き出される」というイエス様の預言は、パウロや弟子たちの受けた迫害によって成就したのです。ルカはその点を強調しているのでしょう。偶然の結果ではなく、福音の宣教に伴う必然的な出来事なのです。それが、救いへの道程なのです。そして、この謁見の際には王たちだけではなく、カイサリアに駐在していた千人隊長たちや町の重鎮も参加したというのです。カイサリアは既にフィリポが伝道した町ですから、そうした人々に中にも既にクリスチャンがいたかも知れません。「ここに集まった重鎮たちが、後の世代が彼等に関して与える評価と、彼らの前に手錠をかけられて立たされ無罪を訴える者との比重を予見できたとするならば、それほど悪評を被らなかったであろう。」[10] 物事の評価は、後の歴史が与えるものです。消えてしまうもの、残るもの、その差は何でしょうか。皆で考えてみましょう。

それはともかく、これは裁判ではなく、パウロが主張する「イエス・キリストの復活の福音」を傾聴する塲だったのです。「彼は真に生きているお方を伝えます。」[11] こうした時も神が与えてくださり、証しの機会とされたのでしょう。わたしたちにも証しの機会があると思います。それはどんな時でしょうか。誰に対してでしょうか。

24節に会見の様子が述べられています。最初にフェストゥスが開会の宣言のようなものを行いました。ここで興味を引く表現は「この男を見なさい」という部分です。讃美歌でも「この人を見よ」などという歌詞がありますが、それはイエス・キリストを見よという表現と似ています。理論ではないし、議論でもない。この人を見よ、なのです。これはまさしく伝道の原点であると言っても間違いではないでしょう。難解な教理とか、議論とか説明ではなく、「この人を見よ」、なのです。その人が、「イエス・キリストの復活の福音」を実感し、その喜びに満たされていることがまさに伝道なのです。パウロはこの福音の故にユダヤ人から憎まれ、殺意を抱かれていた対象者だったのです。フェストゥスはそうした問題に困惑していたのです。ですから、フェストゥスには皆さんが彼を直接ご覧になって各自が判断して下さいという意図があったのでしょう。

そのあと、25節でフェストゥスはパウロを弁護しています。パウロは死罪に値しないというのです。彼の言い分は、死罪でないし、事実無罪なのだから放免しても良かったのだが、そのプロセスが終わらないうちにパウロ自身がローマ皇帝に上訴したので、もうすでに自分の守備範囲を越えているというわけです。わたしに残された最後の義務は、この男を無事にローマに護送するだけであるというのです。ただ26節にあるように、その際、陛下(主君)に書状に書くべきことがないと言いました。ここでフェストゥスは主イエス・キリストと同じ「主」という言葉をローマ皇帝の称号として使っています。「自己保身のために、彼は皇帝を神のように恐れていたのです。」[12] そこで、この際の謁見で話し合われた内容を書面にまとめて皇帝に送付するつもりだと言いました。その言葉を聞いた時、同席したカイサリアに駐在していた千人隊長たちや町の重鎮たちはどう思ったことでしょうか。一種の緊張感が生じたと思われます。軽はずみなことはいえないし、もしそうすれば自分に災いを及ぼす可能性があります。そして、それはフェストゥスも暗に意図したことでしょう。そうでなければ、各自が勝手な判断を述べて議場は混乱したかも知れません。そして最後に、27節でフェストゥスは、パウロを囚人としてローマに護送する際に罪状がないことは理にかなわないと述べています。こうして理路整然とフェストゥスが事をすすめたために、パウロはイスラエルで処刑されることなく、ローマでキリストの復活の証しをする道が開けたのです。「キリスト者は、単なる一つの主張や意見を持っている者たちなのではありません。主イエスが現に復活されたということの生きた証人なのです。」[13] 何が幸いなのかは、その当初にはなかなか判断できないものですが、神の摂理によって必ず真理は明らかにされます。神の時があります。そこにも大きな救いが見出されるのです。

[1] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、331頁

[2]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、308頁

[3] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、222頁

[4] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、482頁

[5] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、386頁

[6]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、308頁

[7] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、388頁

[8]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、309頁

[9] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、389頁

[10] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、484頁

[11] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、333頁

[12] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、422頁

[13]  前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、422頁

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