信仰告白について学ぶ、読む説教
「この岩の上に」 マタイ16:13-20
ルーテル教会は信仰告白の教会ともいわれます。今日の個所から信仰告白について学びたいと思います。イエス様は弟子たちに、人々がイエス様の事を何と言っているかを尋ねました。当時は新聞やテレビもありませんから、人々のうわさでニュースが伝わっていったのです。同様に、昔の日本では全国を行脚する僧侶や商人、芸人などによってニュースが伝えられたようです。当時の人々は、一日に40キロから50キロは歩いて移動していましたから、かなり遠い場所にも情報は比較的早く伝わったようです。イエス様の時代も同じでした。
そういう状況で、弟子たちへのイエス様の質問には二つの面がありました。最初の問いは、人々がイエス様のこと、「人の子」を何と言っているか。第二番目の問いは、あなたはわたしのことを何というかです。その際に、不思議な言葉が出てきます。人の子という表現です。ヘブライ語では人はアダム、子はベンですから、イエス様はご自分の事を「ベン・アダム」と呼んで、人々は自分のことをどういっているかと尋ねたのです。以前に評判になった本の作者名前にイザヤ・ベン・ダサンというものがありました。日本語に解釈すれば、あれは「ダサンの息子であるイザヤ」という意味です。
ところで、ベン・アダムには純粋な人、人の原点という意味もあります。そして、それは、旧約聖書ダニエル書7章13節の「人の子」と関係があります。つまり、世の終わりに到来するメシア、救い主の事です。ですが、当時メシアと言う言葉は政治的解放者という意味が強かったので、イエス様はメシアという表現を避けてご自分を「人の子」と言ったわけです。ですから、イエス様ご自身には、自分がこの救いのために犠牲を払う贖い主であるという自覚が既にあったわけです。
そこで、イエス様に聞かれて弟子たちは答えました。当時は、すでに処刑された洗礼のヨハネが蘇ったと思っていた人もいたわけです。エレミヤをはじめ、他の預言者が蘇ったと考えた人々もいたようです。ですから、死者が蘇るという復活信仰が広まっていた様です。最近の日本のテレビ・ドラマでは「復生者」という用語が用いられています。しかし、これはあくまでドラマ上のことであって、復活を信じている人がいるわけではありません。ここで、弟子たちの告白に戻りますが、彼らの信仰告白のレベルは、二千年後のわたしたちが客観的にみると、他者に親切にしたり正義や公平を目指す信念は理解できたけれど、本当に十字架と復活の意味を信じるまでには至っていない状態だったわけです。わたしたちもこのレベルに近い時もあるでしょう。あるいは、初めてこの記事を読んでくださっている人も、この点はチンプンカンプンかも知れません。
そのあとで、イエス様は、第二の質問として、一般的な評判ではなく、弟子たち自身が「人の子」の事を誰だと思うのかと尋ねました。勿論、イエス様自身は政治的な誤解を避けるためにメシアと言う言葉を使わなかったのですが、弟子のリーダー格であったペトロが。「あなたはメシア、生ける神の子です」と言いました。やっぱり、「メシア」用語を使ってしまったということは、ペトロの頭の中では、イエス様がローマ帝国の支配から解放してくださる政治的指導者だと意識があったのです。
一方で、ローマ書10:10には「心で信じ、口で告白して救われる」と書いてあります。これを見ると、ペトロの時代から数十年後のパウロの時代には、信仰告白が救いの中心だと理解されていたことがわかります。ペトロの信仰告白は原語では「キリストです」と書かれています。英語訳でもキリストです。以前の口語訳でもキリストになっています。この方が理解しやすいわけです。ここで、イエス様は、キリスト(メシア、救世主)なのだとはっきりしたのです。これを整理すると、「人の子」はベン・アダム、罪なき純粋な人、人の原点であり、ダニエル書で預言されている、キリスト(メシア、救世主)なのだということです。
イエス様は、善い人だとか、宗教家だとか、ヒーラーだとかいう意見もあったでしょう。でもそれは、キリスト(メシア、救世主)の信仰告白とは違います。原罪によって神のもとから離れ、苦難と争いの歴史を歩んできた人類が、救い主の十字架の犠牲(あがない)により、再び生ける神のもとに戻り、永遠の命を受けることが聖書において約束されている救いの概念の中心事項だからです。これこそが、キリスト教神学の中核的中心であって、これがわかれば、どんな人生でも、自分が生きてきたことが無駄ではなかったということを悟るはずです。
ペトロの言葉をイエス様は「神による」信仰告白として受け止めました。人間の信仰告白ではないのです。それまでのペトロの人生は、自分で決め、自分で行い、自分で考え、自分で反省していたものでしょう。この自分、自分という考えが、聖書によれば原罪の徴候なのです。自分ではなく、「神」のことを考えたり「愛」のことを考えたりするようになったら、救いの入り口に立っていると考えていいでしょう。原罪に100パーセント染まっている状態では、「神による」信仰告白は生まれないのです。ですから、ペトロには天の父なる神が顕現(啓示)したのです。イエス様は敢えて神とは言いません。心理的に遠くなるからです。だから、父なのです。パテル、ファーテル、ファーザーです。神がアポカリュプトーされた。これは啓示、顕現のことで、隠された物の覆いを取り除くという意味です。人間にはイエス様をキリストだと理解できても、神の助けがなくては信仰告白することはできないのです。それを確信させてくださるのが生きて働く神の働きなのだという感動的な場面です。印西インターネット教会の役割も、キリスト教は知っているが、信仰告白ができていないので様々な悩みや苦しみに取りつかれている人の心の解放をお手伝いすることです。それでも、信仰告白自体は神の世界のことです。おそらく、語ったペトロ自身も驚いたでしょう。罪人であって、信じることや信仰告白が困難だった自分を通して、このような神の啓示があったからです。
余談ですが、わたしが学生の頃に信仰告白で悩んだことがありました。自分は性格的に飽きやすく何をやっても続かなかったのです。しかし、あるとき教会の祈祷会に行く路上で神のお告げのような実感がありました。「自分で始めたものは自分で終わる。しかし、神が始めたものには終わりがない。信仰告白は神のものである。」このおかげで、50年以上たった現在でも、信仰告白は揺らいだことがありません。それはそうですよね。もともと、神のものなのですから、自分で自慢できるものではありません。
そして、イエス様は、その信仰告白を岩(ペトロ)として教会の基礎としました。それまでの彼の名は、原語ではペトロではなく、シモン・バルヨナです。これはヨナの子シモン、あるいはヨナ族の子孫シモンという意味です。ですから、彼を通して神が語った信仰告白を通して、彼の名前は、シモン・バルヨナではなく、シモン・ペトロになりました。イエス様もナザレ出身のイエス(ヘブライ語ではヨシュア)ではなく、イエス・キリストになったわけです。神による改名に、教会の出発点があるのです。それは、それまで続いていた人間的性格の否定です。
人間とは砂の城のようなものです。時代の波を受け時代と共に消えます。しかし神が語り、神が顕現し、神が建てた教会は岩のように動かず、消えないものなのです。イエス様が、生きて働く神を父として、罪の苦しみを負ってきた人類の身代わりとなって苦難を受け、人類を救うためにこの世に来られた尊い方であるという信仰告白は永遠です。不動です。そして、岩です。それに、サタンは対抗できません。この世の嵐のような悩みも対抗できません。その時のペトロに渡された天の国の鍵は、ペトロの弟子に渡され、2千年間継がれてきて現代の牧師たちにも渡されてきています。ですから、信仰告白の教会であるルーテル教会(印西インターネット教会の原点)はアウグスブルク信仰告白の中で、教会というものをこのように述べています。「福音が純粋に説教され、聖礼典が福音に従って与えられる」のが教会である。また、教会の関する他の項目でこのように信仰告白しています。「キリスト教会はもともと全信徒と聖徒の集まりにほかならないが、しかしこの世にあっては、多くのにせキリスト者や偽善者、またあきらかな罪人が、信仰ある人々の中に混じっているのであるから、不信仰な司祭によって与えられた聖礼典も同じく有効である。」「聖礼典もみことばも、キリストの設定であり委託であるから、たとえそれが悪人によって与えられても有効なのである。われわれの教会は、教会において悪人の教職を用いることを拒み、悪人の教職は無効で、何の力もないと考える者を、異端と宣告する。」
つまり、教会は神が建てたものだから人間が自分の知恵と力で選んだり排除したり拒絶できないという信仰告白です。そして、罪多きシモン・バルヨナも神の委託によって、シモン・ペトロと改名され、天国の鍵を預かるものとされました。その後ペトロもイエス様を裏切るなどの惨めな失敗をしました。しかし、それによってペトロに託された天国の鍵が帳消しにされることにはなりませんでした。イエス様の約束は不変です。人間には、何の「いさおし」もないのに救い主イエス・キリストの十字架の贖いによって、自分の罪が贖われたのです。宗教改革以後の500年も、人間の判断ではなく神が建てた信仰告白の岩の上に教会は立ってきたのです。イエス様がペトロに語ったように、「あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる」と約束されています。教会は建物ではなく、わたしたち信仰者の集合体が教会そのものです。信仰告白を共有するのが教会です。エフェソ2:19以下に、あなた方はもはや単なる異邦人ではなく、神の神殿の建物の一部であると教えられている通りです。これを読んでくださっている皆さんも、神の啓示を感じ信仰告白を共有してくださるならば、インターネットを通じて、眼には見えない神の教会の一員です。
その後のペトロも迷いました。わたしたちもこれからものいろいろな出来事の中で、思い悩む時があるでしょう。でも問題はありません。教会は人によって建てられたものではないからです。神の信仰告白共同体です。コロナ禍で、わたしたちが礼拝において、説教を聞き、讃美歌を歌い、聖礼典を受けることができなくとも、それは人間的・物理的要素であって、迫害の時代のクリスチャンたちが、パウロの手紙の朗読によって礼拝していたように、現代ではインターネットという見えない絆によって、神はわたしたちを信仰告白に導いてくださっています。