閑話休題

台風14号と聖書の中の暴風

巨大な台風14号が日本列島を縦断しようとしています。台風が年々巨大化するのも、地球温暖化と関係があるのでしょうから、これも人災の部類に入るのかもしれません。ただ、暴風というのは昔からあるもので、聖書にも記載されています。その一つは、パウロが護送されてローマに向かう時のエウラキオンと呼ばれる北東風です。「船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた」(使徒言行録27章15節)と書いてあります。その後、パウロたちの船は積み荷までもすべて捨てて14日間漂流しました。やっと陸地に近づいたときに、パウロは「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」と言って励まし、一人も命を失うことがないという神のお告げを伝え、事実その通りになったのです。もう一つは、ヨナ記に書かれている暴風です。ヨナは神から、悪徳都市ニネベの滅亡を宣告せよとの命令を受けましたが、それを嫌って船で逃げたところ、暴風に遭遇し、船員たちは嵐の原因を捜索し「人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。」(ヨナ記1章10節)そこで、ヨナ自身の提案もあって、人々はヨナをいけにえとして荒れ狂う海に投入したのです。神の采配でヨナも助かりましたが、嵐も静まりました。この時の状況描写で興味深いのは、船員たちが、だれの罪科の原因で暴風になったのかを調べました。ここに自然現象と神の判断との関連にたいして古代の人々は敏感だったことが示されています。キリスト教神学では、こうした因果応報的な思考方法はあまり推奨されていませんが、ソドムとゴモラの滅亡の記事にあるように、神の審判という概念は存在するといえるでしょう。人間の起こした地球温暖化によって、台風を含む過激な気象現象が起こってきていることも、原因は人間の自己中心的な原罪にあるわけですが、それを神の審判と考えると、被害にあって苦しむ人々に対する神の愛はどうなっているのか、という疑問も出てきます。判断が難しい問題です。神義論(THEODICY)というものがあって、この世の悪と神の善とが矛盾するものではないと証明する試みも以前はありました。それにしても、台風や地震、そして津波などは人類に莫大な被害をもたらしますが、その原因を神の意志に求めることにはむりがあるように思えます。神が自然を含む万物の創造者であることは、親が子に対してそうであるように、一定の自立性を付与しているものと考えていいのではないでしょうか。すべての自然現象の裏で、神が操り人形の捜査の様に糸を引っ張っているとは考えにくいものです。ですから、キリスト教神学には「勧善懲悪」という考えもありません。台風14号が、最も悪い人々の住む地域へむかうわけでもありません。最後になりますが、新約聖書の中の暴風の記事は信仰に関連しています。「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、『主よ、助けてください。おぼれそうです』と言った。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。』そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」(マタイ福音書8章24節以下)ですから、どんなに激しい自然現象が起こっても、神の愛と救いを信じ続けるようにイエス・キリストは諭したと思われます。わたしたちの人生におこる様々な試練も、それを「天罰」と考えるよりも、信仰成長のための試金石として考えることが大切なのではないでしょうか。

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