使徒言行録26章1節–18節 文責 中川俊介
いよいよアグリッパ王とパウロの対話が始まりました。ユダヤ教に詳しいアグリッパはまずパウロに自分の見解を述べさせました。1節に、パウロは手を差し伸べながら語ったとありますが、これはどんな意味でしょうか。「右手を差し伸べることは古代の雄弁家の典型的なしぐさであった。」[1] パウロの態度は非常に丁寧であり、王を王として尊重するものでした。研究者はこの部分の表現がきわめて洗練されて言い回しで構成されていると考えています。それだけでなく、王の前で証しするというのはイエス様の預言でした。「ですから、パウロは今やその主の御旨がここに成就しようとしていることを自覚していたはずです。」[2] 厳粛な気持ちだったと思われます。パウロは自分が根拠のないことでユダヤ人から訴えられていることを説明しようとしました。そこで、パウロはアグリッパがユダヤ教について詳しい知識を持っていることに感謝しています。彼には公平な判断を期待できるという意味でしょう。また、3節でのパウロの言葉は慎重であり、これまでの大祭司や議員に対する言葉とは同じではありません。自分の弁明に対してアグリッパ王が忍耐をもって聞いてくれるように懇願したのです。
次に、パウロは具体的な内容に移りました。それは彼自身に関することでした。「使徒の弁明は、ここでもまた、自分の生涯の物語を述べることにあった。」[3] わたしたちでも、信仰の表明は、架空のことではなく自分の物語でしかありません。パウロは再び自分の回心のいきさつを語りました。「使徒行伝には、パウロの回心の記事は前後三回でています。(中略)このように、何度もでてくることは、それがパウロにとってだけでなく、教会にとっても、原点ともいうべき」[4]、ものだったということです。それはわたしたち信者の原点でもあります。この回心は神から来るものです。そのパウロの若いころの事柄とは、ガマリエル門下の学者であり、キリスト教迫害の急先鋒であった頃の彼のことでしょう。その彼のことを、エルサレムのユダヤ人は例外なく知っていたというのです。その当時のエルサレムがどの程度の規模の都市であったかはわかりませんが、現在の旧市街と呼ばれる城壁内の人口が3万4千人程度ですから、それほど大きな数ではなかっただろうと想像されます。ですから、パウロのことを皆が知っていたというのも誇張ではないでしょう。5節にあるように、パウロは最も厳しいファリサイ派の一員として知られていたのです。つまり、この事を通して、パウロは自分が律法やユダヤ教の慣習を冒涜するような人間ではないという伏線を引いているのでしょう。そして、これは架空のことではなく、まさに事実であって、エルサレムに行ってそれを目撃した証人を捜すこともできるとパウロは強調しました。パウロはこれまで根拠のない訴えに苦しめられてきました。それは、憎しみとか否定的感情に依拠する排斥にしかすぎません。そのような告訴は、ローマ法から考えれば、まさに法に反する行為です。ところが、若いころからのパウロの生活は、彼を知る者ならだれでも証言できるほどユダヤ教に徹底していた、いわば模範生だったのです。おそらくアグリッパ王もそれは聞いていたことでしょう。ただ、当時、アグリッパ王は30歳を少し過ぎた程度で、イエス様の処刑やパウロの若い頃にはまだ幼子だったのです。ですから、パウロの青年時代の事実は本人から聞く必要もあったでしょう。わたしたちの青年時代はどうだったでしょうか。皆で話してみましょう。
自分の過去に触れた後で、パウロは現在彼が告訴されているのは、神の約束の為だと6節に述べています。この神の約束とは救い主イエス・キリストの到来のことでしょう。しかし、パウロは自分たちがクリスチャンとして迫害されているとは語らず、正統的なユダヤ教徒として神の約束を信じているがゆえに裁判にかけられていると述べたのです。これはユダヤ教に詳しいアグリッパ王の注意を引いたことでしょう。ローマ帝国内でもユダヤ教に対する信仰の自由は保障されていました。帝国公認の宗教だったのです。それなのに、この宗教が保証している神の約束を信じることで何故迫害されるのでしょうか。その点をパウロは言いたかったわけです。さらに、パウロは過去の栄光であるイスラエルの12部族に言及します。彼らも神を信じ、神の約束の実現に希望を持っているというのです。そして、7節の後半でパウロはこの約束の実現に対する希望の故に訴えらえていると述べています。それから徐々にこの神の約束の内容に入っていきます。それはつまり、8節にある死者の復活ということでした。「モーセも預言者もメシアの受難と復活についてすでに予見していた。」[5] しかし、救い主が罪の贖いのために殺され、三日後に復活するという預言にはまだ触れていません。アグリッパが死者の復活の約束をどう考えるかを知りたかったのです。そこからパウロは再び過去の体験に戻ります。事実を大切にする態度がここに伺えます。9節以下が迫害者だったことのパウロのことです。ここで始めて、パウロはイエス様に触れます。イエス様はユダヤ人の間では、やはり、「ナザレのイエス」なのです。イエスという名前が一般的な名前であり、それは旧約聖書のヨシュアと同じ意味だったからです。パウロはこの「ナザレのイエス」の反対者でした。そしてイエス様の弟子たちにも反対していました。そして、10節にあるように祭司長たちの許可を得て、弟子たちを投獄し、死刑に同意していたのです。これはパウロにとって暗い過去でした。「パウロは、当時会堂においてしていたことを、深い痛みを覚えて回想している。」[6] しかし、彼はそれを隠そうとはしません。イエス様を処刑したのは彼ではありませんでしたが、聖なる者たちを処刑したのは彼の責任だったのです。しかし、反面、ユダヤ教の立場から言えば、パウロこそ正統的ユダヤ教を守るための英雄だったのです。パウロの発言にはこの両面があると思います。そして、11節に書いてあることは、まさしく事実であり、この事の故にパウロの名はエルサレムで知られていたのです。彼の迫害は、日本の踏み絵のように、会堂でイエス様の弟子たちにイエス様を冒涜するように強制することでした。これは信者にどれほどの悲しみと痛みを与えたことでしょう。「しかし、そのような試みは殆ど成功しなかった。なぜなら信徒たちは棄教するより殉教することを選んだからである。」[7] そして、パウロは正統派であるがゆえに「ナザレのイエス」の弟子たちに怒りを覚えていました。神の愛を忘れた律法は怒りを生むことがわかります。そして、パウロはダマスコまで迫害の手を伸ばしました。
12節からは、ダマスコ途上での出来事に関するパウロの証言です。「使徒言行録に書かれていることのすべては、まさにこの瞬間のためにあったと、読者は感じずにはいられない。」[8](ワラウケイ227)パウロが何故自分の過去の経験をアグリッパ王に語ったのかは疑問です。それはともかく、パウロがキリスト教徒を迫害するためにダマスコに向かったのは公式な派遣を受けてのことでした。ですから、本来は祭司長たちが行う処刑の権威をパウロが委任されていたという事です。つまり、パウロにはキリスト教に関する興味もなかったし、こうした異端を力で弾圧することしか考えていなかったのです。これはアグリッパ王にも十分理解できることだったでしょう。ところが、13節にあるように、パウロは白日の中で天からの光を目撃したのです。光というのは常に神の顕現を表わすものです。つまり、全く予期しないところに発生する神の働きこそ顕現であり、イエス・キリストの復活のしるしなのです。それまでの迫害者としてのパウロにどれほどの光が見えていたことでしょうか。「パウロがここで自分の回心について語っているのは、イエスの復活信仰を、彼がどのようにして持つようになったかと説明しているあかしなのです。」[9] 突き詰めて言えば、聖書自体が注目している神の顕現の頂点は、救世主の受難による贖罪と復活という事なのです。これがパウロの起点であり、初代教会の起点だったことがわかります。わたしたちはどうでしょうか。この事を皆で話し合ってみましょう。
パウロの見た光は太陽よりも明るく輝きました。ロシアに堕ちた大隕石の録画などを見ますと、パウロの言っていることの状況がいくらかは理解できます。それにしても不思議な現象です。日本では、日蓮が鎌倉幕府によって龍の口刑場で斬首されようとした時に、江の島の方向から光が現れ、処刑人は恐れをなして倒れたり逃げ出したと伝えられています。この光を稲光だという人もいますが、事実は明快ではないようです。パウロの見た光も単なる自然現象として説明がつくものではなかったのでしょう。14節にあるように、パウロと同行の者たちは、日蓮の処刑の際の役人たちと同じように地に倒れたのです。それだけではなく、パウロはそのときにイエス様の呼びかけを聞いたのです。「この証言の形は他の二か所(9章、22章)で述べられている回心物語とちがってイエスの語りかけを含んでいる。」[10] その声は叱責の声ではありませんでした。名前を二度呼ぶと言うのは、ユダヤ人の習慣では、愛しい者に対する呼びかけを意味します。パウロとしてはクリスチャンを迫害しているつもりだったのでしょうが、実は、そのことがイエス・キリストご自身の迫害となっていたのです。イエス様の言葉はそれを表わしています。犠牲となって行った一人一人の信者の中にイエス様がいらしたという事にほかなりません。ですから、わたしたちもキリスト者として苦しみにあうときに、先ずイエス様がその苦しみを負ってくださっていることを覚えたいものです。ここで、イエス様は「とげの付いた棒」のことを述べています。「刺のあるむちを蹴るという格言的な言い回しは、獣を飼いならす者が、長い、前のとがったむちで御する家畜から取ったものである。」[11] そして、この言葉は当時の口語であったアラム語ではなく、聖書の言葉であるヘブライ語でした。「クリスチャンたちに反対するパウロの活動は、彼らを痛めつけただけでなく。パウロ自身をも同じように傷つけ始めていたことをしめしている。」[12] 無実で善良な信徒たちを苦しめている時に、パウロの心にも苦しみが芽生えてきたのでしょう。そしてそれがその後の迫害時代に信者が増えていった形だったのです。そこで、15節にあるように、パウロは声の主にその人が誰であるのかを尋ねました。そこでイエス様は、自分のことを明らかにしました。そして、16節にあるように、パウロを立ち上がらせ、イエス様の証人、そして奉仕者とすると語りかけました。なんという展開でしょうか。全く逆の方向へのスタートなのです。
17節以下には、イエス様の役割を担ったパウロがその後なすべきことが述べられています。それは、第一にユダヤ人と異邦人の救いを実現することです。そのために、18節では、パウロの役割は、彼らの目を開き、闇から光に、サタンの支配から神の支配に立ち帰らせることでした。そこでは、イエス様への信仰が重要です。後にパウロが、信仰の重要性を説いたのは、彼自身の発案ではなく、イエス様から直接お聞きしたことに基づくことだったのです。その結果、罪の赦しが与えられます。「御父は、わたしたちを闇の力から救いだして、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13-14)まさに信仰から罪の赦しへの道程です。その結果、人々は聖なる者とされ、神の恵みの賜物を付与されるというのです。これらの言葉は、非常に重要であり、パウロの神学の出発点となったと考えてよいでしょう。「おそらく、ここで用いられている神学的表現はアグリッパが理解するには深すぎるものであったことであろう。」[13] ですから、後の伝道者パウロは、この神の与える賜物を知ってどんな試練にも動揺することがありませんでした。そして、それは現代のクリスチャンが受けている神の賜物でもあります。
[1] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、390頁
[2] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、423頁
[3] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、310頁
[4] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、336頁
[5] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、391頁
[6] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、312頁
[7] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、490頁
[8] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、222頁
[9] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、430頁
[10] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、228頁
[11] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、313頁
[12] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、228頁
[13] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、397頁