「矛盾の上に咲く花」 マルコ8:27-38
今日の題は、モンゴル800、モンパチという沖縄のグループの歌の題と同じです。その歌詞にこうあります。「矛盾の上に咲く花は根っこの奥から抜きましょう。同じ過ち繰り返さぬように。そして新しい種をまきましょう。そしたらどこの国も優しさで溢れ、戦争の二文字は消えていく。」ウクライナへの侵略戦争が続く今日、こうあってほしいと思う人は多いと思います。
ところで、矛盾という表現ですが、これは中国の韓非子(紀元前3世紀)の本にある、矛と盾を売る商人の話から来ています。どんなものも突き刺す矛と、どんな刃物も通さない盾を打っている商人に、ある客がその矛で盾を突いたらどうなるかと問いただし答えられなかったという話です。これは笑い話ですが、わたしたちの生活にも矛盾は多いのではないでしょうか。それだけでなく、矛盾の商売人のように、己の生き方を指摘されるまで、問題点に気付かない場合も多々あります。
今回の聖書個所は、マルコ福音書における転回点とも言われている部分です。ここを一つの折り返し地点として、後半の部分は苦難の十字架の話に移って行くからです。分水嶺のようなものですね。だから、ここに十字架の予告がでているわけです。
イエス様の一行は、色々な村に行って、愛の神のことを伝えようとしました。普通の人々は聖書を詳しく知りませんでしたから、神のことを愛の神ではなく、裁きの神と思っていました。(わたしも小さいころには、悪いことをしたら神様の罰が当たるといわれたものです。)彼らの伝道の旅の道中で、イエス様は弟子たちに人々が自分のことを誰だと言っているかを尋ねました。彼らの答えをみると、人々がイエス様を神からの預言者の復活の姿として理解していたことがわかります。イエス様の伝道は、神の愛を伝えるというよりは、有名な預言者が再生して、世の悪を指摘しているという形で理解されていたのです。なんという誤解でしょうか。そして、現代でも、キリスト教は立派に生きなければ神に裁かれるという宗教だと誤解されている面もあります。
さて、その後で、イエス様は、弟子たち自身の意見を聞きました。しかし、自分はどう思うかと問われて、彼らは沈黙してしまいました。例えば、信仰告白というものがありますが、礼拝では、他の人に混じって言葉だけでとなえる場合が多くあります。これを、各個人が本当に信じているかを基本にして唱えたらどうでしょうか。とくに使徒信条で「罪の赦し、体のよみがえり、限りなき命を信ず」ととなえるときに、それを心から唱えることができたら、自分の過失を責めることもなく、死も恐ろしくない筈です。本当にそうだと確信して、それを言葉に出すと、不思議なことに信仰と実際の生活との矛盾はなくなり、限りない勇気が溢れます。
さて、イエス様の問いかけに、答えたのはペトロだけでした。ペトロは、「あなたはメシアです」と答えました。これは正解です。ペトロはイエス様が、神のメシア、つまり救い主だと思っていたのです。しかし、そのあとでイエス様が語ったメシアの役割、つまり十字架の苦難の話は、彼には信じられない話でした。しかし、それは元来聖書の預言の教えであり、イエス様が思いついたものではありません。一方、ペトロの考えは、聖書に基づいたものではなく、世間的に伝えられていた世直しの王様的な、救い主の考えでした。ローマ帝国の支配からの解放者ということです。ところが、イエス様の考えは、正しいものが正しくない者のために苦しむという、神の愛の計画と矛盾していませんでした。ペトロの考えは、神の言葉と矛盾していました。そこで、弟子のリーダーであったペトロが、聖書ではなく世俗的な考えに影響されて、イエス様の発言に反対しました。ペトロは聖書と食い違っている自分の矛盾には気が付かず、人間的な親切心からイエス様の将来を心配して受難を否定したわけです。この時点のペトロは、イエス様を個人的に知っていましたが、まだ聖霊に満たされていなかったといえます。残念なことに、日本のクリスチャンの中にも、この時点のペトロと同じ状態の人がいます。それは、わたしを含めた牧師の責任でもあります。教会のことは知っていますし、聖書も読んでいますが、まだ聖霊に満たされていないのです。この状態では、平時はよいのですが、人生の大試練には砂の城の様に崩れ去ってしまいます。
さて、この部分の、マタイ福音書の並行記事を見ますと、「主よ、とんでもないことです」とまでペトロが言ったと書いてあります。ここでイエス様はそれを強く批判しました。「サタン、引き下がれ、あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」これは本当に厳しい言葉です。なにしろ、サタンですから。しかし、ギリシア語原文を直訳すると「サタンよ、わたしの前にでしゃばって出てきて邪魔をしてはいけない」となり、それほど否定的な表現ではありません。つまり、あなたが心配していることは、人間的な発想による心配であり、聖書を通して神が語っている事とは全く違うよという意味です。ここで思い起こすのはルターの経験です。若いころのルターは、自分で救いの道を切り開こうと切磋琢磨、苦行をしました。しかし、そうした人間的な努力が聖書の教えと違っているのを発見したので、本当に救われたのです。ルターが発見したのは、人は神の恵みによって聖書に導かれ、救い主の十字架の贖いを信じる信仰だけで救われるという事でした。これは、現代でもかわりません。しかし、前述したように、宗教改革の真理を習得していないクリスチャンは、自分自身の言動や、過去の失敗で苦しむことになるのです。一言でいえば、心が神の絶対愛に向いていないのです。とても残念なことです。
さて、イエス様が殺されたのは、宗教的指導者によるものでした。神を知っていると自称していた者たちが、実は聖書の伝える神ではなく人間の妄想でつくりだした偶像に従っていたわけです。日本のほとんどのカルトは偶像宗教です。そして、その根元にあるのは権力と金銭です。しかし、冷静に考えると、まさにそこに、人間なら誰でもが持つ矛盾が隠されています。わたしたち自身も例外ではありません。偶像礼拝とは、実は、カルトだけではなく、自分が創造した神以外の愛着対象への執着のことです。健康維持やペットさえカルトになりうるものです。ここが肝心です。ですから、第一弟子のペトロの発言さえも、「サタン、引き下がれ、あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」と厳しく批判されたわけです。この言葉は記憶に残った事でしょうね。弟子たちの、そうした失敗を削除しないのが聖書の良さでしょう。ただし、これを一般の教会で行うと、信徒たちは牧師批判を始めるし、献金をやめたりして、教会維持が困難になるので、たいがいの牧師は聞こえのいい話でお茶を濁してしまうのです。とはいっても、キリスト教がまだ迫害されていた明治時代の伝道者であった植村正久先生は、ある教会の超人間臭い代議員に「おまえは豚だ」と言ったことが記録に残されています。それにしても、これは自分の牧会する教会ではなかったので可能だったのかもしれません。印西インターネット教会のように、信者の献金で教会を維持していない教会でない限り、信者に「忖度」する風潮があるのは否定できないことです。それによって、聖霊ではなく、人間的な配慮などが牧師の働きの評価基準になっていることは残念なことです。日本でも聖霊による新たな宗教改革が望まれることです。(だいぶ余談になってしまいました。)
さて、本文に戻りましょう。「あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」これはガツンとくる言葉です。神の愛ではなく、人間関係の愛を考えているのがわたしたちでだからです。人間の愛は条件的なもので、神の無条件の愛とはちがいます。パウロも初めはそうでしたが、復活したイエス様に出会ってから、無条件に罪を赦す絶対愛の救い主がおられることがわかりました。そこで、パウロは有名な第一コリント書13章の愛の賛歌で「愛は自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」と述べています。
ここで、自分の利益を求めないとは、自分の事柄を第一にしないことです。これが、いわば原罪のPCR検査です。誰でも自分が先ですが、聖書は逆です。罪がないからです。イエス様の無原罪も同じことです。神の絶対愛が先です。パウロが語る「いらだたず」というのは、人から挑発されても怒りを爆発させないことです。「恨みを抱かない」とは、ギリシア語原語では、もともとは会計係が勘定する用語であり、悪いことばかりを数え上げないという意味です。聖書に従って、人間が神の絶対愛を受けることは、原罪に起因する人間的な「矛盾」がなくなることです。それが起こることは人生最大の奇跡の一つであると言えるでしょう。ペトロもパウロもルターもその奇跡を経験しました。わたし自身も、この印西インターネット教会を創設できたことは、一つの奇跡だと思っています。前にも書きましたが、個別の教会では、毎週数十人の人々に福音を伝えるだけです。しかし、インターネット教会では、金銭的な制約なしに、数万人の人々に福音を伝えることができます。もし、神様が許して下さるならば、日本の人口の100分の一である100万人に福音を伝えたいなと思っています。(そういえば、「百万人の福音」という雑誌もありましたね。)
さて、ペトロに対するイエスさまの叱責とは、イエス様の言葉の「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ということと同じです。つまり、神を愛し、「原罪のもたらす矛盾」に満ちた自分自身に死ぬことです。ですから十字架とはこの象徴でもあるわけです。メシアであるイエス様は、わたしたちをありのままに愛し、その罪(原罪)の身代わりとなって、絶望の世界に沈んでくださったのです。しかし、ペトロでさえ、この時はまだ、矛盾に満ちた信仰観でした。それを変えて下さったのは、イエス様の忍耐と愛の十字架でした。わたしたちの救いの原点は、わたしたちを愛する救い主が、原罪に汚染されたわたしたちのために、無原罪の命を捧げるという絶対愛を示してくださったことにあります。代理行為による救いが聖書の教えです。これを他力といってもいいでしょう。キリスト教が中国の景教を経て、日本の浄土真宗にまで影響を与えています。この代理犠牲の愛の十字架のもとには、矛盾の上に咲く花は、咲くことができません。矛盾は、原罪による自己中心から派生するものであり、絶対他者の世界には存在できないからです。カルトなどが提唱する人間の作った偽物の愛の花は、やがて散ります。第一コリント2:2「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」讃美歌208番「十字架のかげに行きしときに、み神の愛を悟りえたり」神の絶対愛を知った人しか書けない歌詞だと思います。作曲したのはアメリカの女性作詞家、フランシス・クロスビーです。彼女は盲目の生涯を乗り越え生涯に9000曲の讃美歌を作詞しました。彼女の95年間の人生を支えたのも救い主との出会い、そして絶対愛を知ったことでした。ある牧師が、目に見えない彼女に、生まれ変わったら願いは何ですかと聞きました。彼女は、「また目の見えないことです、天国で最初に見るのが愛する救い主だからです」と答えたそうです。まさに聖霊に満たされた人の言葉ではないでしょうか。
そこで、今回のテーマの歌詞を書き換えてみました。「矛盾の上に咲く花は救い主イエス・キリストが根っこの奥から抜いてくださる。同じ過ち繰り返さぬように。そして新しい神の絶対愛の種をまいてくださる。そしたら誰の心も優しさで溢れ、不幸や絶望の二文字は消えていく。」