死についての考察6
フランスの映画監督だったジャン・リュック・ゴダール氏が9月13日に亡くなりました。91歳だったそうです。安楽死と報道されていますが、厳密にいえば安楽死ではなく自殺幇助だったということです。つまり、完全に無力化した身体の生命維持を止めたのではなく、本人が自分の意思によって死を選び、他者がその手段を行使したのです。ゴダールは死の前に「もう疲れた」ともらしたそうです。人生に疲れたのでしょう。91歳にもなると、自分がやりたかったことは全てやり尽くし、倦怠感のみが残ったのでしょう。アンニュイでしょうか。わたしが学生の頃は、彼の映画だった「気狂いピエロ」などを見て、実存主義の軽やかな生き方を夢想したものです。そうした実存主義の終着駅が「もう疲れた」だったということは、ありのままの実感であるというのは納得できますが、なにか寂しい思いもさせるものです。若いころのわたしは、共産主義にも実存主義にも共感を持っていました。後で考えたことですが、共産主義の原型を創案したマルクスはユダヤ人であり、聖書の中の「神のもとの全人類の平等」という概念を知っていたと思います。また、実存主義で有名なのはキルケゴールですが、これもキリスト教とは無関係ではありません。ただし、平等主義や実存主義も、一つの理論であって、聖書の教える死生観を共有しているわけではありません。だから、ゴダールの最後は「もう疲れた」なのでしょう。ちなみに、十字架上でのイエス・キリストの最後の言葉は「もう疲れた」ではありません。「イエスはこのぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ福音書19章30節)この部分の「成し遂げられた」というギリシア語の原語はテテレスタイであって、それは神のご計画が成就したという意味です。キリスト教神学の知識を持っている方は、ゴダールの言葉とイエス・キリストの言葉の根本的な違いが判ると思います。ゴダールの場合には、自分の思考の原点は自分であって、その域を出ていません。つまり、自分から始まって自分で終わるというのが、原罪(神から隔離された人間の姿)の徴候です。一方で、イエス・キリストの場合には、痛いとか疲れたとか苦しいとかいう自分の状況ではなく、神のご計画に視点が向けられています。これこそ、無原罪の救い主の最後の言葉にふさわしいものです。そして、そうした例は聖書のほかの箇所にも見られます。例えば、迫害で殉教したステファノの最後の言葉です。「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って眠りについた。」(使徒言行録7章59節以下)ステファノは無原罪で生まれた人ではありませんが、その最後を見ると、聖霊の働きによって無原罪(神の絶対愛との一致)のしるしが見られます。さらに、旧約聖書にも、ある人物の興味深い最後のことが書かれています。「エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5章23節以下)その他の多くの始祖たちについては「死んだ」と書かれているのに、エノクだけは「いなくなった」と書かれています。ですから、神と共にあることは、命の源泉に結びついていることなので、死は超越されていると示唆されていると考えてもいいでしょう。こうした聖書の記事は、新約聖書でも約二千年前の出来事、旧約聖書ならば数千年前の遠い国の遥か昔の出来事なのですが、もっと身近な日本の近代史でも同様な事実が歴史に残されています。それは、長崎での二十六聖人の殉教の事です。彼らの視線も、自分自身ではなく、救い主イエス・キリストに向けられていました。ですから、ステファノと同じように迫害者にも優しい眼差しを向けることができたのです。これには、当時の宣教師も感動してローマ法王庁に書簡で報告しています。ゴダールの最後の姿には少し残念な気もしますが、聖霊を受けることなしには、誰でも疲れ果てて死んでいくのでしょう。これは死の勝利です。しかし、聖書は死の敗北を宣言しています。わたしの好きな旧約聖書の言葉にこう書いてあります。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章30節以下)ゴダールさんの疲れた魂を神様が癒してくださるように祈ります。まだ神の絶対愛を知らなかったころ、つかのまの楽しい青春の一日を与えてくれたゴダールさん、サヨナラ!