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天から示されたパウロの使命について聖書から学ぶ

使徒言行録26章19節32節   文責 中川俊介

パウロの自伝的な証は続きます。19節には、パウロがアグリッパ王に語りかけた様子が描かれています。パウロの伝道への姿勢は、彼自身の願いではなく、「天から示された」事柄に対して彼が誠実に従っているだけであったと強調されています。これに対して、アグリッパ王は対抗する言葉を持たなかったでしょう。ユダヤ教を知る者にとって「天から示された」事柄というのは絶対的な強制力を持っていたに違いありません。たとえ人に背いたとしても、神の御心に背くことは考えられなかったのです。

20節以下が、パウロの回心以後の生活に関しての事柄です。彼はダマスコ途上で復活の主に出会ったわけですが、その後、ダマスコでそこにいた信者と共に伝道しました。そして、エルサレム、またイスラエル南部であるユダヤでの伝道、さらにはアジアやギリシアでの異邦人伝道に関わったことにも触れています。これはまさに、パウロの伝道の経路を年代順に追ったものです。ただ、パウロがユダヤで直接伝道に従事したことは記録されてはいません。パウロのエルサレムでの活動の影響が周辺のユダヤ地域にも及んだと考えてよいでしょう。「パウロの奉仕を通じて全ユダヤ人にはっきりとおおやけに、イエスが示された、そのことが重要なのである。」[1] その間の詳細は省略されていますが、これらすべての活動がまさに「天から示された」命令から来ているのであるとパウロは証ししたのです。そして、そのメッセージの内容も「天から示された」命令から来ていたのです。これは第一に、悔い改め、つまり神の道に方向転換することです。ユダヤ人はもともと神を大切にしていたのですが、それがいつのまにか自画自賛的な信仰になっていたのでしょう。わたしたちの場合はどうでしょうか。この点について皆で話してみましょう。

パウロが強調した第二の点は、悔い改めの実としての行いです。これは悔い改めが主観的なものではなく、実際に種が蒔かれて芽を出し育っていくように、実を結ぶことが大切だとパウロは教えていました。真実な悔い改めは、必ず良い実である行いを生みます。ですから、自分のなかに行いの実が見えないときには、行いを改めようと努力するのではなく、出発点に戻り、悔い改めることが重要です。これは真理です。「真理こそ人を救うのです。」[2] ですから、ルターは、日毎の悔い改めを説きました。

驚くことに、ここでパウロは、話題を急転回させ、この悔い改めと行いの実を奨励する伝道の結果、ユダヤ人は彼を殺そうとしたというのです。伝道の範囲としては、ユダヤまでは許容範囲だったと思いますが、異邦人伝道は多くのユダヤ人の反感を買ったのです。また、自分を正しいとする信仰観を持ったユダヤ人に悔い改めを説くことは、イエス様の伝道の際と同じように、ユダヤ人のプライドを逆なでする結果となったのです。また、この事は既に聖書に預言されていたことではありました。救い主は「神に敬虔な者」であると自認する者たちによって殺害されたのです。また、イエス様の弟子たちも「神に敬虔な者」たちによって迫害されたのです。「救い主は苦しみを受けなくてはならない、というのは根本的に新しい考え方であった。」[3] パウロもこうした迫害を受けた一人でした。神殿でパウロが逮捕さえた時も、「神に敬虔な者」たちの反感を買ったからです。それに、迫害者たちは、何度もパウロの暗殺計画を立てました。神信仰が、歪んでくると、正しい者を迫害し、殺そうとまですることがわかります。

しかし、パウロは言いました。彼の伝道は人から出たものではない。22節にあるように、パウロは神からの助けによって堅固な信仰を維持することが出来たのであり、人間の力によるものではないのです。また、その伝道の対象はすべての者にたいしてでした。アグリッパ王にも伝道しようとしたのです。相手に対する差別や区別はないのです。万人共通の福音伝道の基本姿勢がここにあります。その伝道の内容は、これもまたパウロの自作自演ではなく、22節の後半にあるように預言の成就であり、モーセの言葉の成就を伝えただけなのです。パウロは誠心誠意、自分が学んだ聖書の箇所がイエス・キリストの十字架の死と復活によって成就したことを信じていました。「このお方により、すべての者に復活が保証されるという使信が続くのである。」[4] 彼が学生だったころには、聖書の預言は単なる言葉上の約束だったでしょうが、ダマスコ途上で決定的な復活の主との出会いを経験してからは、彼は聖書の言葉の実現を堅く信じるにいたったのです。これはわたしたちの体験でも同じでしょう。聖書の言葉が体験を通して証しされる時があるのです。パウロの復活への確信はそこにありました。彼は聖書の言葉に何一つ加えていないのです。聖書学者であったパウロが言うのですから確かでしょう。聖書から差し引くものも、加えるものもなく、まさに聖書のみの世界です。パウロは、アグリッパ王が十分に聖書を理解していることを承知しながらも、この確信の内容を23節以下で明言しています。つまり、救い主(メシア)の受難の死と、この世の初穂としての復活、そして万人に対する光の宣言です。現代では福音というと、神の愛という点のみが強調されがちですが、基本的にパウロは福音をメシアの受難と復活、そして光の布告という線で考えています。これは、闇から光へという意味と同じであり、死と罪が滅ぼされるという福音の教えの中心的部分です。その中に神からの愛の理解も含まれるのでしょう。イエス・キリストの復活を信じることが、罪の贖いとなるのです。初代教会にとって「闇から光へ」という福音がどれほど大切だったかは、東方教会(ギリシア正教、ロシア正教など)の伝統に見ることができるでしょう。それは「神よりの神、光よりの光」を強調した二ケア信条を大切にする信仰です。

24節以下は、パウロの証しに対するフェストゥスの反応です。前にも書いてありましたが、アグリッパ王はユダヤ教には詳しい人物でした。その彼は沈黙し、傍らで聞いていたフェストゥスは、パウロの弁明を全く否定し、パウロの考えは狂っていると叫んだのです。彼が理性主義者だったからでしょう。「キリストの復活の使信は、総督フェストにとって、狂気に見えました。」[5] これはフェストゥスが叫んだのではなく、彼の心に潜む人間中心主義、つまりサタンが叫んだのかも知れません。「パウロは復活の故に裁判にかけられていたのである。」[6] その発言の中でも、パウロが碩学であることは認めている点はおもしろいと思います。「のちに教養豊かなローマの役人プリニウスやタキトゥスのような人もキリスト教を過度の迷信と呼んだ。」[7] ですから、パウロは学問しすぎで頭が狂ったと思われてしまったのです。キリスト教の教えは、神を信じず、自分の理性と自分の判断のみを信じる者には迷信か狂気としか見えません。

パウロはフェストゥスに答えました。その姿勢は実に冷静でした。頭が狂っていると言われても、感情的にならず、25節にあるように「真実で理にかなったこと」を話しているのだと言いました。「総督には完全な狂気としか思えなかった事柄は、パウロには単純明快な真理であった。」[8] ここに信仰の秘訣が隠されているように思えます。パウロはフェストゥス以上に理性的でした。ただ、その理性の中心は自分自身ではなく、聖書の教えだったのです。これはわたしたちにとっても大切なことです。また、26節ではアグリッパ王に対して、王の見解を尊重しつつ、パウロが話したことが明白な事実であることを説きました。そして、事のいきさつは既に王の耳に入っているだろうと述べたのです。つまり、ここでもパウロは自分が話したことは決して架空の理論ではなく、まさに事実であると主張したのです。ここでわたしたちが学ぶのは、キリスト教の基盤が空理空論にあるのではなく、使徒たちが体験した確固たる事実に立脚しているという事です。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちの信仰は、聖書そして事実という根拠を持っているでしょうか。この点を皆で話し合ってみましょう。

27節で、パウロはさらにアグリッパ王に語りかけます。それは預言者に関する見解でした。ユダヤ人なら預言者の言葉を信じているはずです。そこをパウロは自分と王との共通点にしようとしたのです。「尋問されている者が尋問したのである。」[9] その時の、アグリッパ王の反応は実に興味深いものです。王は、預言者を信じているか信じていないかなどという応答は避け、パウロの理路整然とした話に感銘を受け、「短い時間でわたしをキリスト信者にしてしまうのか」と述べています。それほど、パウロの証しは強い衝撃を与えるものだったのです。ただ、アグリッパ王は、自分がパウロの証しに納得してしまうのを良しとはしませんでした。人々の面前では、心の中に抵抗があったのです。しかし、歴史の流れを考えると、その後約250年して、王の王であるローマ皇帝コンスタンチヌスがキリスト教に回心することになりました。証しの種が無駄になることはありません。それはそれとして、アグリッパ王に対して、パウロは、信仰の事柄は時間の問題ではないと述べました。長いとか短いとかは関係ないのです。それに、パウロの証しを聞く全ての人がキリスト信仰を持ってほしいと訴えました。それがパウロの祈りでした。パウロの伝道は、証しであり、祈りによる神に対する依頼でもありました。最後にパウロは軽い冗談も忘れませんでした。皆に自分のようになってほしいが、自分が拘束されている鎖は別だと言うのです。パウロにこうした心のゆとりがあったことは、驚くべきことです。どんなに真剣な証しであっても、それはあくまで神が自分の人生に成し遂げてくださったことに関する証明であって、自分自身は取るに足らない者であるという意識をパウロは常に持っていたからではないでしょうか。「つまりわたしたちが企画したものではなく、神からくるものなのです。」[10]

その言葉を最後として、王や総督を初め議場の面々は退席しました。もはやパウロの言葉を聞く必要はなく、パウロは単なるユダヤ教の見解の違いによって迫害を受けていることが判明したからです。こうした事柄は、書面や噂では判断しにくいことであって、人々は実際にパウロの顔を見て、その声を聞いて、この人物の言葉には嘘偽りがないと判断したのです。ですから、31節にあるように彼らの共通意見は、パウロには死刑にあたるような過失はまったくないということでした。「事実、ローマ法の観点では、パウロには全く罪は見いだせなかった。」[11] また、パウロを最もよく理解したアグリッパ王は、フェストゥスに向かってパウロの無罪を告げました。しかし、皇帝に上訴しているのですから、ここで裁判を終わらせるわけにはいかないという事です。そして、舞台は、パウロが祈り続けていたローマ帝国の首都ローマに移ることになります。「パウロが長い間待ちわびていたローマに行く夢は、もうすぐ叶うことになったのである。」[12] パウロの祈りに対する神の応答があったのです。ですから、アグリッパ王が気の毒に思いながら語ったことは、パウロにとっては幸いなことでした。パウロは釈放を望んでいたのではなく、イエス・キリストが聖書に書いてある通り、贖いの子羊として十字架にかけられ、三日後に復活し、弟子たちに聖霊を賦与したと世界中の人々に伝えたかったのです。そしてそれは、現代に生きるわたしたちのところまで伝わっているのです。

[1]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、316頁

[2] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、443頁

[3] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、229頁

[4] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、317頁

[5] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、338頁

[6]  前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、230頁

[7] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、318頁

[8] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、495頁

[9] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、230頁

[10] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、337頁

[11] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、496頁

[12] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、401頁

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