人間関係回復の教えを聖書から学ぶ
「戒めと赦し」 マタイ18:15-20
宗教という言葉は英語でレリジョンであり、これが関係という言葉のリレーションと同じ語源であることは知られています。「孤立した人間、つまり個人主義的人間、は人間ではない」と言った学者がいます。リレーションがなくなるから殺人や強盗ができるのです。聖書には人間関係の問題だけでなく神と人との関係が教えられています。イエス様は、兄弟が罪を犯したら、言ってその人に忠告しなさいと教えました。兄弟とは教会の交わりに入っている人であって、家族の兄弟ではありません。また、忠告するということは、何かの警告ではありません。原語には学校の先生がつける成績簿の意味があって、細部までチェックして、罪を指摘するという内容になっています。ですから、個人の意見ではなく、聖書に照合して、兄弟の行いが神の御心に対して根本的に間違っているなら指摘しなさいとイエス様は弟子たちに教えた訳です。勿論、イエス様自身も常に弟子たちにそのように教えていました。しかし、弟子たちは集団生活をしていました。イエス様の見ていないところでも間違いが生じます。その時に近くにいる弟子が同じ信仰の兄弟姉妹の罪を詳しく指摘し、神の御心を覚えなければ、集団の質的成長は不可能です。それをイエス様は良く知っていました。また、日本語には兄弟のところに行ってというふうに翻訳されていますが、奇妙なことにギリシア語原典には「行く」という意味がありません。「行く」と翻訳されたギリシア語のヒュパゴーという言葉は、本来は「徐々に退いて離れていく」という意味です。皆さんは、これをどう解釈しますか。なんと、行くのではなく退いていくのです。つまりその意味は、兄弟に忠告するために静かな場所に退いて、自分と兄弟だけになって罪の問題を告げなさいということなのです。また、「忠告する」とは「愛をもって向かい合うこと」をも意味しています。裏で陰口したり、感情をむきだしにしたりしないで、きっちり面と向かって冷静に話し合いなさいというのが、聖書のアドバイスです。
もし、忠告を聞いてくれるなら、兄弟を得たことになるといいます。また、この「得る」と言う言葉は原典では、ケルダイノーであり、人の魂を滅びから神の国に救いとるという意味です。悪人に警告するのにも、配慮して語るべきです。エゼキエル書にあるように、「悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人の死の責任があなたにある」というのです。わたしたちの責任です。ですから、イエス様だけでなく、信徒同士でも魂を救う必要があります。教会でいうなら、神に遣わされた牧師だけでなく、信徒同士でも魂の救いのためには共に退いて忠告するときも必要でしょう。
しかし、忠告が聞かれない場合にはどうでしょうか。ほかの一人か二人を引き連れなさいと命じます。そうすれば言葉の証言が確立するというのです。
しかし、兄弟が聞くことをしない、原語では「いい加減に聞く、聞いても意にとめない、聞き流す」という状況になるならば、教会に告げなさいと書かれています。もし、教会の事さえ、「いい加減に聞く、聞いても意にとめない、聞き流す」ならば異邦人のように扱いなさいとも命じられています。つまり、神を知らない者として接しなさいということです。それであっても、いつも神様は忍耐強く説得してくださいます。だから、まさに神の絶対愛がしめされるのです。
18節にアーメン(真実に)言いますというイエス様の定型句があります。これは大切な事を語るよという当時の語法です。弟子たちに対する約束でもあります。この世であなた方が結ぶものは何でも天国で結ばれる。この世で弟子たちが解くものは天国でも解かれる。これが重要な約束です。イエス様は天国の鍵を持っていましたが、その天国の鍵を弟子たちに与えているのです。つまり、弟子たちの判断にゆだねたのです。弟子たちが地上で判断することは、天国での判断と同じだとしたのです。その権威をイエス様は弟子たちに与えたわけです。縛るとは罪の判断、緩めるとは罪の赦しでしょう。
ある学者がこう書いています。「罪の赦しとは何か、と言えば具体的にはキリストの現在である。罪の赦しがなければキリストは現在し給わらない。キリストが現在したまうときに、われわれと神との間に距離がない。」(注;現在とは今の意味ではなく、現実に存在するという意味)それは、現代でも礼拝に生かされています。弟子である牧師に委ねられた天国の鍵を信じない人にとっては、礼拝の中で牧師が行う罪の赦しの宣言は何の意味もなく、罪が残り、その人を苦しめ続けます。この点では、インターネット教会では礼拝という接点がないので、贖罪の役割を考えていく必要があります。インターネットのない古代ローマ帝国の時代にも、牧師が常在したわけではないでしょうから、信徒間で贖罪の儀式を行った可能性も否定できないでしょう。前にも書きましたが、インターネット教会の場合にも、要望さえあれば、わたしも出かけて行って聖餐式や罪の赦しの宣言を行うことができます。
さて、これはイエス様が弟子たちに約束され、与えられた権威であり、2千年間引き継がれてきた罪の赦しの約束だと信じる者にとっては、贖罪とはイエス様の言葉が実現し、神との間に距離がない状態(無原罪)、つまり愛に包まれている状態となります。また、今日の個所では、「あなたがた」と呼びかけられていますから、一人ひとりの一般の教会員にもこの和解と赦しの権威が与えられていると考えていいでしょう。まさにアーメン(真実)、アーメン(真実)の世界なのです。ですから、最初に指摘したように、この部分は単なる喧嘩や争いの仲裁ではなく、細部までチェックして、罪を指摘するという意味ですから、その罪を判定し、戒めたり、あるいは赦す権威を、イエス様は弟子たちにも与えたということです。それが教会の存続意義です。(残念なことに、現在のプロテスタント教会の礼拝は、牧師さんによる聖書のお話を聞いて生活の糧とする、という思考レベルの活動になってしまっています。)カトリック教会の方が、聖礼典の意味を変えていません。
19節でイエス様は、再び大切な言葉の定型句である、アーメン(真実)、アーメン(真実)を用います。もし、この世の二人の音が調和し一つになって、(スムフォネオー)求めるなら、それは天の父が与えるというのです。神は弟子たち個人ではなく、一緒に求める願いをなんでも叶えてくださいます。というのは、イエス・キリストの名によって弟子たちが集まる時にはイエス様がいらっしゃるからなのだと説明されています。イエス様の御臨在です。つまり、イエス様が弟子たちに罪の判断と罪の赦しの権限を与えたのは、イエス様が彼らと共にいて下さるという恵みに満ちた約束だったのです。イエス様が教えた神と人との関係(レリジョン)とは、共にいます愛の神を信じなさいということでした。たとえ、この世で孤独老人として死んだとしても一人ではありません。神が共におられるのです。神が共におられると実感すること自体が、実は罪の赦しです(!!)。何故なら、罪とは愛の神から分離し、切り離された状態のことだからです。罪赦された人間は、パウロのように、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)、また、この世の何も「イエスキリストによって示された神の愛から引き離すことはできない。」(ローマ8:39)と言えるのです。
人間の罪とは隣人を忘れどうしても一人になってしまう事にあります。コロナ禍での隔離に似ていますね。これは分断です。創世記にも、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)、と書いてあります。人間が孤独になってしまうと、人の悲しみ、人の苦悩、人の痛みが分からなくなってしまいます。神から離れてしまいます。それが罪の姿です。また、イエス様と初代教会が望んでいた対人関係が、日課の次の個所に書いてあります。7の70倍、つまり際限なく赦しなさいと言う命令をイエス様は与えています。人を赦さないことは、排除することであり関係を切断したり、分断することです。宗教とは英語でレリジョンであり、これが関係という言葉のリレーションと同じ語源であることは知られていますが、関係を切断すること、関係を無視すること、関係を排除すること自体が罪だとイエス様は教えたのです。それは人間間の問題だけでなく、愛の神との関係を排除してしまうからです。ロシアがウクライナの領土の一部を分離しようとしているのも、まさに罪の姿です。逆に、罪を赦すということは、自分自身が神の赦しに入れて頂く大切な信仰生活の一部であr、全信徒にあたえられた大切な役割だといえるでしょう。
イエス・キリストはいまもなお、わたしたちが幸せな人生を歩むために愛をもって教え、戒めて下さっています。そして、そのために用いられる具体的な手足というのが、私たち自身なのです。