印西インターネット教会

81歳になるジョーン・バエズは最近まで歌っていた!!

驚きました。あの70年代の歌手であったジョーン・バエズがまだ最近までは歌っていました。過去の人ではなかったのです。そして2016年に歌っている、「GOD IS GOD」(神は神)という歌が実にいいのです。皆さんにも聞いてほしいですね。そして、わたしが感動したのは、ジョーン・バエズの歌唱力が衰えていないことと、この歌の歌詞の内容です。その一節にはこうあります。「I BELIEVE IN GOD BUT GOD AIN’T US. GOD IN MY LITTLE UNDERSTANDING DON’T CARE WHAT NAME I CALL. WHETHER OR NOT I BELIEVE DOESN’T MATTER AT ALL.  I RECEIVE BLESSINGS.」(わたしは神を信じているけど、わたしたちは神ではない。わたしの小さな理解では、神は自分が何と呼ばれようと気にしていない。また、わたしが信じようと信じまいと、まったく問題ではない。わたしは恩寵を与えられている。) これは、日本に多くみられる律法的なキリスト教とはずいぶん違います。ただ、アメリカでは一般的なキリスト教の理解です。第一に、カルトのように人間が自分を神の立場と同一視することを否定しています。そして、キリスト教の神も、回教の神も、神道や仏教の神も、名前は違っても、神の方は気にしていないというのも事実です。人類すべてが神の子だからです。そしてさらに感動的なのは、神にとっては、わたしたち自身が信じようと信じまいと問題なく、わたしたちを愛し、祝福を与えて下さっているということです。これは宗教改革の時点の神学を超えている考えだと思います。宗教改革では、人間の善行によって神の好意を得ようとする人間的作為を否定し、信仰のみ、としました。ところが、この信仰も、ある面では人間の度量を図る測定器となり、信仰の良しあしで救いの度合いが違ってくるという矛盾をはらんでいきました。これでは、人間の善行も、人間の信仰も同じレベルです。神学的には、神の視線から判断しなければなりません。すると、「GOD IS GOD」の歌詞の正当性が見えてきます。神が絶対愛であるということは、イエス・キリストが異邦人に対しても神の愛の存在を説いたように、普遍的なものです。例えば、地球上では重力は普遍的なものです。善行をした者には重力が軽く、罪ある者には重力が重いということはありません。誰に対しても公平です。イエス・キリストが、「良い者にも悪い者にも」恵みの雨は公平に降ると教えたように、神の絶対愛は、条件的なものではないがゆえに、信じる者にも信じない者にも公平に与えられていると考えていいでしょう。信じていない者は、この絶対愛を知らず、人間同士の愛に一喜一憂しているだけです。残念なことです。ジョーン・バエズの歌に励まされて、わたしも神の絶対愛のすばらしさをこれからも伝えていきたいなと改めて思いました。

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