使徒言行録27章1節–20節 文責 中川俊介
1節から筆者ルカの一人称的記述が始まります。つまり、ルカもパウロとローマに同行することになったので、その状況を読者に詳しく説明しようとしているのです。その他の記事は、ルカが他者やパウロ自身から聞いた事を筆記したものでしょうが、ここから使徒言行録の最後の部分をルカは自分自身が体験したことの証しとしたのでしょう。そこに、パウロの活動における神の深い愛を感じるものです。「こうした目撃者的な記述方法は、旅行の部分のみに用いられていることには注目すべきであろう。」[1] さて、イタリアへの船旅の日程は決まりました。ローマに送られて裁判されたり処罰される者はパウロ以外にも数名いたようです。ですから、パウロだけが特殊なケースだったのではないわけです。その時の護送部隊は皇帝直属の100人隊であり、いわば精鋭部隊だった訳です。それは、これらの囚人を奪還しようとする動きも想定できたからでしょう。その100人隊の隊長はユリウスという人でした。ルカは個人名までだして、事実の信憑性を強調しています。
2節以下が船旅の様子です。それはカイサリアから地中海を横切ってクレタ島に行き、そこからローマに行くものではありませんでした。アジア州沿岸の港に寄港していく船というのは、いわば各駅停車の電車のようなものでしょう。ここにでてくるアドラミティオン港というのは、小アジアの北西の港町で、海運が盛んだったようです。ですから、この船は囚人護送の専門船ではなく、地中海沿岸に就航して積み荷を運ぶ船が母港に帰っていくものだったのです。「人々は、イタリアへの幅広い船便を見つけることのできる、小アジアの南海岸にある港に寄港するので、この舟を利用した。」[2] パウロの警護もそれほど厳しいものではなく、ルカをはじめテサロニケ出身のアリスタルコも同伴しています。「彼はルカと同じく、エルサレムへの出発にあたって初めて同行者となったのではなく、すでにエペソでのパウロの活動の間、パウロの仲間であった。」[3] 彼らが同行したことでパウロも励まされたことと思います。「アリスタルコはフィレモン24節、コロサイ4:10に登場するが、パウロと一緒の囚人としてである。」[4] ですから、彼も囚人としてパウロと共にローマに向かったのかもしれません。
3節を見ますと、カイサリアを出発して次の日には100キロくらい北にあるシドンに着いています。このシドンはイエス様がカナンの女の信仰に驚嘆した場所でもあります。陸路で一日に100キロ移動するのは大変だったと思いますが、船では休んでいるうちに到着したことと思います。ですから、当時、海運が盛んだったのも納得のいくことです。シドンも海運業で栄えた港町でした。そして、そこには既にイエス様の時代からキリスト教徒が生まれていたのかもしれません。その証拠に、親切な100人隊長ユリウスの許可を得て、パウロはシドンの友人たちの所で歓待を受けることができました。「友人」と言う表現はクリスチャンの同義語です。ですから、囚人であるパウロを温かく迎えてくれたのはシドン教会の信徒たちに違いありません。彼らはパウロたちにローマでの伝道資金も援助したのです。パウロも、こんな機会であってもそうした人々を励まし、共に祈ったに違いありません。ルカがその詳しい様子を報告していないのは、彼がそうした会合に同行しできなかったからかも知れません。
シドンからは地中海沿岸を北上するのではなく、4節以下にあるように、キプロス島の北側を航行して、小アジア南部のミラという港に着いています。その際に100人隊とパウロの一行は船を乗り換えています。やはり、最初の船は、そのまま小アジア沿岸を辿って行って小アジア北西のアドラミティオン港まで行ったのでしょう。パウロたちはイタリアに向かったのですから、ここで船を換えるのは順当なことでした。そして、今度の船はエジプトの地中海沿岸にある大都市アレクサンドリアの船でした。規模的にも大きな船だったようです。これはエジプトの穀物をローマに運ぶためのものでした。当時のエジプトはローマの穀倉ともよばれていました。
その時の地中海は季節風が激しく、なかなか前進できなかったようです。彼らが次に着いた港は、やはり小アジア南部にあるクニドスという港ですが、ミラからは300キロくらい離れたところです。シドンに行った時の速度ならば3日の行程ですが、強風のためにそれ以上の日数がかかったことでしょう。「人間の生涯もしばしば荒れた海を行くことにたとえられる。」[5] 多くの研究者が27章を魂の困難な旅路として解釈してきたそうです。中には、この場面を教会が歴史的にたどってきた試練の比喩として受け止める学者もいたそうです。困難の中で、わたしたちの方向を示す羅針盤や北極星のようなものは何でしょうか。皆で話してみましょう。
パウロやルカにとっては特に急ぐ旅ではなかったはずですが、ルカは困難な状況を克明に記しています。それは何故でしょうか。たぶん後で記述する神の助けの出来事の背景として説明しているのでしょう。古代の航海の記録としては重要なものだそうです。それはともかく、強風のため前進できなかった船はクレタ島の島影を迂回することでようやくローマの方向に進むことができました。そうした困難な状況でも、船員たちは海路日和を待つのではなく、広い地中海で方向転換して、新しい目的地に向かったという事は驚くことです。彼らは日程通りに積み荷を届けたかったわけです。ちなみに、彼らが旅したローマの東の地中海の部分とは、ほぼ日本海に匹敵するものです。現代の旅客船でも荒れた海を横切って何百キロも進むことは容易ではありません。当時の航海技術の高さはめざましいものでした。クレタ島の港の名前は、現地の名前では記載されておらず、その意味である「良い港」という訳語だけが8節に記してあります。前述したように、急ぐ旅ではなかったとは思いますが、強風の中で難破してしまえば、ローマで伝道したいというパウロの願いはかなわなかったことでしょう。しかし、それは神の御計画ではなかったのです。困難な旅路であっても、パウロたちは徐々にローマに近づいていたのです。
この「良い港」というのは名前だけでなく、実際に海が荒れている時には、多くの船が安全な停泊地として選んだ場所だったのでしょう。ただ、深い入り江ではなく小島に囲まれている港でした。本当の「良い港」は多くはなかったことでしょう。9節には、かなりの時が経ったとあります。「良い港」で風の収まるのを待ったのでしょうが、それが9節にあるように「かなりの時」だったのです。そして、時間が経過して彼らの断食の時期(9月か10月、紀元59年には10月5日であった)が終わるとすでに航海には危険な季節になってしましました。「人びとは冬期の間には航海を中止した。」[6] そこで、航海には素人同然のパウロが、突然、船員たちに忠告しました。パウロはおそらくこうした啓示を神から授かっていたことでしょう。「パウロは、ローマを見るとの、ローマ伝道の使命感に燃えていましたから、神の声を聞いたのであります。」[7] 「船員たちにたいするパウロの言葉は預言的なものであることが証明された。」[8] わたしたちの場合はどうでしょうか。将来に対する知見を与えられているでしょうか。
さて、パウロが語ったのは、この航海が多大な損失を生むという事です。それまでに、さまざまな伝道旅行に際してパウロは海難を経験していますので、こうしたことにはかなり詳しかったのかもしれません。「彼は三度も難船した経験があると言っており、さらに一昼夜、海の上を漂ったこともあるとしるしております。」[9] (第二コリント11:25参照)ところが、100人隊長のユリウスは素人同然のパウロの発言を信ぜず、専門家である船長や船主を信用しました。たぶん、わたしたちが同じ立場に置かれたら、ユリウスのような行動をとるでしょう。それが、人間の知恵ばかりを信頼する誤りなのです。ルカはそれを強調したいのでしょう。他方、パウロは神の啓示に立って事態の困難さを直感しました。
さて彼らが滞在していたというか、足止めをくっていた「良い港」は実は冬を越すには「良い港」ではなかったことが12節に書いてあります。船は港内に停泊している限り安全なのでしょうが、なにか不適切だったのでしょう。そこで、船員や乗船者たちの大多数は、パウロの意見を無視して同じクレタ島のフェニクス港に行って、そこで冬を越すことにしました。その港は南西と北西に面していると書いてありますから、おそらく強風は南東とか北西から吹いていたのでしょう。さて、風向きがかわった時に、人々は出航しました。大多数の人がパウロの言葉を信じないで、船長や船主を信用したのです。当然とも言えば当然です。しかし、それが間違いの始まりだったとルカは言いたいのです。彼らの航路はクレタ島に沿ったものであり、波吹き荒れる大海を横切るものではありませんでした。こうしてキプロス島でもそうだったように、風を避けて島影を進めば安全航行できるはすでした。13節の「人々は望みどおりに事が運ぶと考えた」というルカの記事に、人間の傲慢さが読み取れるのではないでしょうか。むしろ、その逆の時こそ、信仰が生まれてきます。「望みどおりに事が運ぶはずがない」と考えたならば、そこには神の助けと導きを願う切なる祈りが生まれてくるはずです。
しかし、案の定、パウロが予告したように、多くの危険と損失の場面が現れてきました。それまでの強風ではなく、島側から「エウラキロン」という暴風が吹いてきたのです。島を頼りにしてきたのに、島から暴風が吹いてきたのでは防ぎようがありません。クレタ島も長さは約200キロ、幅は約30キロの細長い島ですが、その幅の狭い陸地に2400メートルもの山がそびえています。ですから、この高山から海岸へ「吹き降ろしてくる」暴風が手に負えなかったのでしょう。聖書は実に詳しく状況を説明していて驚かされます。15節には、船が前進できず、漂流してしまったと書かれています。それから彼らはカウダというクレタ島の南側の小島の陰に来て少し強風から逃れ、小舟を引き寄せることができました。この小舟は、上陸や避難用でしょうか。それは甲板に乗せたようです。また、17節にあるように、この近辺は浅瀬も多く、座礁の危険もあったようです。遠距離を行く船は喫水も深く浅瀬になれば座礁して転覆するという危険がありました。2012年にはイタリア沿岸で、コスタ・コンコルディア号という11万トン級の豪華客船が座礁して多くの死傷者を出しました。18節には、彼らにとっては貴重な商品であった積み荷を海に捨て始めたことが書かれています。旧約聖書のヨナ書にも、嵐の際に船乗りたちは「積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした」(ヨナ書1:5)と書いてあります。パウロたちの船の船員たちは船具さえ投げ捨ててしまったと、19節にありますからこれは大変な非常事態でしょう。そして、その過酷さは20節に書いてあります。何日にもわたって太陽も星も見えなかったということは、空が暗黒に覆われ、方向もわからず、船は荒波の中を漂流し、なすすべもなく、振り落とされないようにしているのがやっとのことで、人々は精根尽き果てた状態になってしまったのです。もはや絶望という事です。「ふつうの人は、自然災害や苦難から、ただ恐れを引き出すのみであります。ところが今、信仰の人パウロは、この災害から、神の摂理を導き出したのであります。」[10] パウロの予告はまさに神の啓示によるものだったということです。「すべてのものを支配し、導いておられる主は、人間の望みがすべて絶たれてしまうかのように見えるときにも、なおすべてを導いておられるのです。」[11] 最初に述べたように、ルカは困難な状況を克明に記していますが、それはやがてきたる神の御栄光を示すためにほかなりません。
[1] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、232頁
[2] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、322頁
[3] 前掲、 シュラッター「新約聖書講解5」、322頁
[4] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、404頁
[5] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、498頁
[6] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、323頁
[7] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、344頁
[8] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、233頁
[9] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、452頁
[10] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、343頁
[11] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、456頁