「砂漠に川が流れる」 マルコ9:38-50
ヤコブの手紙5:7には「農夫は秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の実りを待つのです」とあります。忍耐だけでなく期待もあるでしょう。イスラエルのような乾燥した地帯では南部の降雨量は年間25ミリです。ちなみに東京は1400ミリです。ほんの少しの雨で耕作する人々には忍耐が必要ですし、この待ち望む思いは信仰と同じ意味だといえるでしょう。少ない水の量ではなく神の恵みを信じるなら、不可能なことが可能になることが起ります。砂漠に川が流れ、一面の花園になるのです。
民数記にはモーセの苦労が書かれています。60万人の成人男子、そのほかに家族を加えると100万を越える人々を導いてエジプトを脱出したモーセには想像を絶する砂漠の厳しい環境のなかで、多くの人々を養う義務が与えられました。それは不可能に近いことでした。ですから、モーセも悩みました。神に民数記11:14以下で、これは責任が重すぎるので、自分には耐えられない、どうか自分を殺してくださいと神にねがっています。神はそのような苦しむモーセを無視しませんでした。70人の援助者を与えて、神の霊を分与しました。モーセの働きを彼らが分担できるようにしたのです。神の助けによって、砂漠で100万人以上の生活を維持するという不可能が可能になりました。
さて、今日の福音書の箇所で、いわば無許可でイエス様の名前を使って悪霊祓いをしていた者に弟子たちが反対しました。無断でこんなことをして許せない、という排他的態度です。しかし、イエス様はそうした排他的な見方を戒めます。人にはむしろ利用されなさい、誰かが強いて一マイル行かせるなら一緒に二マイル行きなさい。これは不便なことです。けれども、これがイエス様の考え方です。イエス様の名前を使って悪霊祓いをしている人たちは、金銭的な目的でしているかもしれないし、異端的な信仰をもっていたかもしれません。もし、イエス様が謹厳実直な、頭の固い人でしたら、きっと弟子たちと同じように、無許可の人々を非難したことでしょう。排他的な人、あるいは批判的態度は、愛ではなく律法からの場合が多いものです。正しさを追求するとどうしてもその方向になります。神の愛に立つイエス様はこの点では別の考えでした。反対しない者は自分の側であるというのです。排他的態度の放棄です。究極の受容です。キリストの弟子だと聞いて水一杯でも飲ませてくれる人は味方なのです。そこに本人も知らない神の愛の霊の働きがあるからです。他者を受容すること、わたしたち自身が受容されていることが神の世界です。これは色々な宗教に囲まれている日本では大切なことです。ですから、ここでイエス様が伝道を神の愛による幅広い活動として考えていたことがわかります。受容こそ、教会の基本的路線です。パウロも、教会は人間の体のようで「体に分裂が起らず、各部分が互いに配慮しあっている」(第一コリント12:25)と述べています。モーセがもはや一人で重荷を負わなくてよくなったように、神さまは伝道の働きにも、貴重な助けを与えているのです。信じていない家族を無理に改宗させるのではない。神の働きは必ずある。いや、すでにわたしたちは家族によって助けられている。憐みの対象ではなく感謝の対象でしかない。この小さな助けが集まり、川のようになって、教会は霊的な力を与えられるのです。ただ、弟子のヨハネがそれを、その当時、納得したかは疑問です。
特に、このヨハネは大変に熱心な、正しさを自負した、優等生的な弟子で、ルカ福音書9章54節では、イエス様に従わないサマリヤ人たちに憤りを感じて「天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言って、イエス様に戒められたこともあります。自分が正しいと思うからこそ排他的だったのです。イエス様は今日の個所でも、排他的なヨハネにブレーキをかけ、勝手に癒している人々を「やめさせてはならない」といわれました。自分も裁いてはいけないし、他人が裁かれることもよくない。人生は普通には種をまいても生えない排他的な砂漠のようです。異質なものを拒絶する場所です。今日の旧約聖書の日課でも、ヨシュアという優れた若い指導者が、霊が与えられた70人以外の者の預言を制限し、別途に霊に満たされたエルダドとメダドの行動を除外しようとしました。しかし、モーセは「主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と反論しています。モーセは確かに神を知っていた。神を知るとは受容であり、広さです。人間的な心の基準、条件主義は神の好みではないのです。神の基準は無条件の受容です。寛容であり赦しです。
教会に集う者ですら、人を排他的に区別したりしてしまうことがあります。そうしたわたしたちの無理解に対して、イエス様は、42節以下の厳しい言葉を語られます。「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と言っています。これを聞いたヨハネは、おそらくびっくりしたでしょう。勿論、イエス様のひとつの強調だったと思います。悔い改めのすすめです。ヨハネは「自分はイエス様に特別に愛されている、」と信じていたと思いますが、その彼が「石臼に首をかけられて海に投げ込まれよ」と警告されたのですから驚いたでしょう。
ヨハネは後になって、人を良い悪いで分類し、排他的に裁く罪が自分にあったことを気づき、悔い改めたでしょう。「神の内にいると思うひとは、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(第一ヨハネ2:6)と書いてあります。人間的な判断に流されてはいけない。神の視点を持ちなさい。外側に心を奪われて、早急に敵だとか味方だとか排他的に考えるのもよくない。敵だとわかってもまだ、愛の対象である。キリストの教えに逆らっていないのなら、イエス・キリストの味方である。友である。愛を忘れ、「汝の敵を愛せよ」の言葉を忘れ、平和を忘れ、自分が一番正しいと錯覚したユダのような人間になってしまってはいけない。
ただ、たとえ、そのようになってしまったとしてもイエス様は敵を愛しているのです。ユダはその愛を振り切りましたが。ペトロはその愛によって受け入れられ、自ら受け入れることができる人間に生まれかわりました。福音書以外の外典によると、弟子たちがあるときイエス様に、なぜ先生はわたしたちよりマグダラのマリアのような罪深い女を愛するのかと問いました。すると、イエス様は何故あなたたちは彼女のようにわたしを愛さないのかと尋ねたそうです。この会話が事実かどうかは別として、罪赦されたものは愛するというのは確かです。愛する者は、受け入れられた者です。差別なく愛する神による罪の赦しを知っているのです。無条件に愛する力は、神の力であって、不可能を可能にし、排他的な砂漠のような世界にも花を咲かせる恵みの働きなのです。また、塩を持つとは、塩の契約という表現があったように不変の友情の象徴でした。変わらない心です。つまり神がわたしたちに対して変わらない心を持っておられるのです。友情を結んでいるのです。人間の狭い領域ではなく、争いの中に平和を、排他的な砂漠のような不可能な地域にも実りをもたらす神、神を信じない罪人を聖徒に変えることのできる神の恵みを信じて、実りある人生を送らせていただきましょう。