閑話休題

地方都市での伝道の難しさ

最近、パソコンで九州地方の地図を見ていました。わたしが40年前に別府教会に赴任した際には、高速道路はありませんでした。会議で熊本に行くにも、久住高原を車で越えていったものです。家庭集会も、国東半島で定期的に行っていました。これも海岸沿いの道を一時間くらい運転していきました。さらに不定期で行っていたのが、大分県南部の漁師町であった米水津(よのうず)という場所です。これは佐伯市を過ぎてから海に突き出た半島の山道を行き、間越(はざこ)という小さな入り江に面した村落での家庭集会でした。ここに住んでいたのは別府教会の「パンの会」という障碍者の会のメンバーであったTさんでした。ですから、時には他のパンの会のメンバーも同乗させて間越に行ったものです。地図を見ると、佐伯から間越の間に、地松浦という港があります。この港で思い出すのは、同乗したMさんと釣りをして、小ダイをたくさん釣り、携帯コンロで料理して食べたことです。楽しい思い出です。後に、Mさんは別府教会で洗礼を受け、その後亡くなりました。Tさんの方は、洗礼を受けるまでには至りませんでしたが、家庭集会では一緒に聖書を学んでいました。もうだいぶ前に亡くなったことでしょう。今思い返すと、九州での伝道は、一緒に活動しながら聖書を教えるというものでした。これには、実は、長い長い時間がかかります。人間同士の信頼関係を築くというのが先行するからです。イエス・キリストの弟子たちのように奇跡を起こすことができるなら、一挙に信徒も増加するでしょう。しかし、無力な若い牧師には、威厳も力もありません。ただひたすらに、祈るだけでした。そして、せっかく信仰を持った若い人たちも、就職や進学のために、大阪や東京に移ってしまうのです。種を蒔いても蒔いても鳥が食べていってしまうかのようです。幸いに日本福音ルーテル教会の場合には、牧師給与は全国一律ですから、教会の資金が足りない時には補助金申請ができます。でも、もし、それもないとしたら、地方都市で伝道するのはさらに困難だと思います。後には、東京の板橋教会に赴任しましたが、東京では、特に伝道しなくても、新しい人が礼拝にやってきます。その人たちは、すでにキリスト教に深い関心を持っていますので、伝道するのは地方の教会ほど難しくはありません。しかし、そうした困難を持つ地方伝道でもよい結果を出したのは、明治時代に来日したロシア正教の宣教師ニコライです。東京のお茶の水には、彼の名前をつけたニコライ堂があります。彼は主に東北地方を中心に伝道しましたが、わたしの住んでいる千葉県北部にも彼の足跡は残されています。ニコライはたった一人で伝道し、約3万人の信徒数を持つ教団を立ち上げたのです。彼の日記が残されていますので、それを読むと彼の孤軍奮闘のようすがわかります。彼は一つの教会に定住してはいませんでした。そこが日本人牧師と違うところです。ある面では、初代教会の巡回牧師のようだったのかもしれません。日本では、西洋の教会パターンを踏襲したので、一教会一牧師のような形になり、さらに悪いことには、伝道は牧師の職務というような考えが一般的になってしまいました。ニコライの考えは違いました。一牧師が、多くの教会のために働くのです。そして、これが大切な点ですが、そうした各教会の長老たちが信徒を育成し自分たちで伝道していくのです。前記したように、地方では人間同士の信頼関係が重要です、よそ者である牧師がその関係を築くのには恐ろしく長い時間がかかります。しかし、もともと地元の出身である信徒たちが伝道したら、もっと効率的であることは確かです。ニコライはそれを知っていました。ルーテル教会にも、「全信徒祭司性」というありがたい教えがあります。しかし、それは実践されていません。教会とは、聖書のお話を聞きに来るところであり、日ごろの苦労の重荷を下ろしに来るところでもあり、自分たちが伝道することなど考える余地もありません。おそらく、日本の多くの牧師たちが、ニコライのような考えを持ち、信徒を教育し、信徒が率先して伝道に従事するようになったら、日本の伝道は進展するでしょう。しかし、現実は逆です。ルーテル教会でも地方教会が衰退し、一教会一牧師の体制が維持できなくなってきており、一人の牧師が複数の教会を牧会する場合がみられます。これは、明治時代のニコライの伝道の時のようですが、ニコライの場合には伝道が進展したのに、ルーテル教会の場合にはさらに衰退していきます。理由はハッキリしています。教会観の違いです。日本の信徒たちの多くは、まだまだ、牧師に養ってほしい、牧師に指導してほしい、牧師に頼りたい、という幼児性から抜け出ていないからです。それは、換言すれば、信仰が成熟していないといえます。そして、まだ、信仰が未熟なのに、外国の「一教会一牧師制度」を輸入してしまったからです。その点では、ルーテル教会も複数牧会が増えてきたということはマイナスばかりではありません。この際、これを牧師の負担が増加する方向に向かわせず、ニコライの時のように、長老たちが各教会をまとめ、牧師の巡回によってその結束をさらに強化するようにすれば良いのです。地方伝道は難しいのですが、外国の伝道も、歴史をみれば、一教会一牧師制度になる前には、やはり巡回伝道でした。それだけではありません。100年前には巡回伝道でしたが、インターネットの普及した現在では、どんな辺鄙な場所でも、ネットでつながっている限りは、電子的に巡回することができるのです。洗礼や、聖餐式、そして結婚や葬儀には、按手を受けた牧師が派遣されるだけで十分です。おそらく、こうしたコロナ禍によって、旧態依然とした「一教会一牧師制」が終焉を迎え、新しい地方伝道の道が模索されつつあるのではないでしょうか。一言でいえば、教会を維持するのがキリスト教の目的ではありません。この世の多くの人々が、神の絶対愛を知って、イエス・キリストのような人生を歩むようになるのが、その目的です。地方伝道だけでなく、伝道そのものが大きく転換しなければならない転換期が、今です。

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