印西インターネット教会

「神の配剤」について聖書から学び希望の糧とする

使徒言行録28章1節16節  文責 中川俊介

長かった使徒言行録の学びもついに最後の章になりました。わたしたちもパウロや他の弟子たちと共に地中海沿岸の各地を旅したかのように感じます。2千年の時を越えて、彼らの福音伝道の熱意が伝わってくるかのようです。

さて、船は難破し積み荷は失われましたが、パウロの予告通り、一人も滅びることなく276名全員が陸地を踏むことができました。彼らが上陸したその島はマルタ島と呼ばれていました。地図で見ますと、彼らが最初に暴風雨に襲われたクレタ島からは千キロ近く西に行ったところにあります。彼らが偶然この島に漂着したからよかったものの、ほかの方向に行っていたら、広い地中海のなかをグルグル回って、最後は幽霊船になっていたかも知れません。彼らが皆助かったことも、まさに神の配剤といえます。特にパウロはそのことを強く感じていたことでしょう。2節には、乗組員と島の住民との交わりも順調だったと書かれています。ここで用いられている「住民」という言葉の原語の意味は、「蛮人」であり、ギリシア語を話さない人々のことです。そこは以前にはカルタゴの植民地だったようです。蛮人といえば、18世紀の探検家であったクック船長はハワイ島で原住民との争いに巻き込まれて死んでしまいました。ですから、見知らぬ人々との出会いは危険を伴うものだったのです。しかし、パウロたちの場合には、背後にあったローマ帝国の支配と平和が助けとなったのでしょう。そんな背景もあって、着の身着のままで上陸したパウロたちは親切な歓待を受けることができたと思えます。2節の後半に書いてあるように、まだ嵐が完全には終わっていない悪天候の中で、彼らは寒さをしのぐためにたき火をたいて人々を温めてくれたのです。「温度は10度以下ではなかっただろう。」[1] しかし、雨の為に体は冷え切っていたのです。

さて、そのたき火を囲んで皆の安全を確認し、ホッとしているときに大変なことが起ったと3節に書いてあります。パウロが自分たちに与えられた枯れ枝を燃やしている時に、おそらくは寒さのために冬眠状態であった毒蛇が熱のために覚醒し、パウロの手に噛みついたのです。「毒蛇は絡みつくということがないので、この蛇が手にぶら下がったということは、パウロに噛みついたと理解すべきである。」[2] その時の住民の反応が興味深いものです。4節にあるように、住民たちはパウロの危険を目の当たりにして、これは天罰だと思ったというわけです。「パウロが囚人だと知っていて、パウロの罪がここに暴露されたとマルタ島の人々は結論した。」[3] この辺は少しユーモラスに書いてあり、海では助かったが、「正義の女神」は彼を生かしておかないのだというのです。その信仰は悪いものではなかったでしょうが、勧善懲悪とでもいうのでしょうか、災難は当事者に対する神の罰として受け止められていたわけです。わたしたちはこの点をどう考えるでしょうか。確かに、悪いことを反省もなく続けた場合には、己の罪によって自滅を招くことは確かです。しかし、それを神の裁きと考えて良いのでしょうか。悪人に対する神の絶対愛をどのように考えてよいのか判断するのが難しいところです。

住民たちの恐れをものともせず、パウロは悠然と手にぶら下がる毒蛇を燃え盛るたき火の中に振り落としました。いわば、毒蛇のかば焼きというところでしょうか(笑)。しかし、彼の態度は実に平然としていました。そして、身の危険に際して動じないパウロの姿が住民たちの目に焼き付いたのです。炎と毒蛇と、悠然たる信仰者パウロ。これほどに鮮烈な福音の証しはないでしょう。人々は、6節にあるように興味津々の状態でパウロの様子を見守っていました。毒が回って苦しみ始めるか死ぬだろうと思っていたのです。地元の人はそれほどこの毒蛇を怖れていたことがわかります。ところが何も起こりませんでした。これは彼らにとって本当に激しい驚きだったことでしょう。誰でも死んでしまうような状況なのに死なない不死身の人がいたわけですから当然でしょう。彼らの恐怖は崇拝に変わりました。パウロのことを「神」に違いないと言ったのです。人間の判断というものはすぐに変わりやすいものです。その中で筆記者のルカはパウロを神格化することもなく、ただ神の働きに焦点をあてています。

7節になると話題が転換します。マルタ島にもローマ政府の行政が行き届いていて、プブリウスという人が長官でした。そして、パウロたちが上陸した浜の近くに彼の所有地がありました。何と幸運なことでしょうか。ここにも神の加護があったといえるでしょう。やはり、パウロには嵐と難船、毒蛇や住民の襲撃などからの害を免れ、ローマに行って救い主を証することが神の定めだったのでしょう。そしてパウロ自身もこれに関する神からのお告げを信じていたのです。そこで、記者のルカもここでは、プブリウスが自分たちを3日間手厚くもてなしてくれたと書いています。ルカにとってもこの事は大変うれしいことだったに違いありません。2週間以上に及ぶ困難のあとに、この歓待はどれほどの慰めだったことでしょうか。神は試練の後に大きな慰めをも与えて下さる方であると実感する場面です。それだけではありません。8節を見ますと、毒蛇の件とは別の奇跡の記録が見られます。プブリウスの父親が何かの病気にかかっており、熱と下痢で弱っていました。「マルタ熱」と呼ばれる風土病だったようです。パウロがそのことを聞くと、父親の家におもむき、手を置いて父親を癒しました。ルカはこの事を実に簡潔に書いています。ただ、この事はプブリウス自身と島民にとって大きな驚きだったことでしょう。毒蛇の害を免れただけでなく、瀕死の病人を救ったのですから大変なことでした。この噂はすぐに付近にひろまり、9節にあるように近くの病人たちもパウロのところに連れてこられて癒されました。彼らの目に、まさにパウロは「神の化身」だったのです。それは、パウロの中に宿るイエス・キリストの働きだったと言えます。ルカは、毒蛇の件と病人の癒しの件とによって、それを強調しています。「この二つの出来事の中に、復活の主がパウロを通して働いておられることを、ルカは示したかったのです。」[4](マルコ16:17以下参照)現代でも、わたしたちの中に働くイエス・キリストのみ霊は偉大な働きを行います。日本のような宗教風土の国では、伝道にこのような癒しや奇跡は欠くことが出来ないと思われます。日本人はギリシア人のように哲学的ではなく、実利的な生活態度を持っているからです。しかし、「家内安全、商売繁盛」のような価値観がカルトの温床になっていることも否めません。

マルタ島での滞在は長いものではありませんでしたが、パウロや他の弟子たちの存在は島民にキリスト教の深い印象を残したことでしょう。マルタ島はそれほど大きな島ではありませんが、365の教会やその他のキリスト教遺跡があることで知られています。「ルカは、マルタ島における教会の建設について語らなかったが、使徒パウロは確かに御言葉をもこの人びとに与えずにはおかなかったであろう。」[5] 紀元60年ころにパウロたちがこの島に漂着したことでキリスト教が伝えられたのです。大変な影響力だったと思います。そんなこともあって、島民はパウロたちを大変尊重してくれました。「パウロや彼の仲間が受けた『敬意』と言う言葉には、医者が受ける謝礼という意味もある。」[6] 詳しくは書いてはありませんが、パウロたちが癒しの業だけでなく、キリスト教の基本的な教えを伝えたことは確かでしょう。

さて、そうこうするうちに3か月が経過しました。冬は終わりました。海は再び航海できるようになったのです。11節にあるように、パウロたちは、マルタ島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗ってローマにむかいました。2月ごろのことだと考えられています。この船もまた、アフリカの豊富な穀物を大都市ローマに運ぶ輸送船だったのです。ディオスクロイを船印とする船だったとあります。この船首の飾りはゼウスの息子である双子の像であって、航海の安全のしるしだったそうです。さて、船はシチリア島のシラクサに行き、そこからイタリア半島のレギオンに着きました。目的のローマまであと少しです。レギオンからは南風に乗って2日の船旅で300キロ近くあるプテオリまで到達しています。「そこは、ローマと東方諸国の間の海の交通の大部分が、往来するところであった。ここで使徒の海の旅行は終わった。」[7] そこの港はナポリとして知られています。最後の船旅を、一時間ごとの速度で考えれば時速6キロという事ですが、順調な船旅だったと言えます。陸路に比べると夜間も航行できますから、風さえよければ大量の積み荷を運んで相当な距離を進むことが出来たのだとわかります。近年、航空機による輸送が盛んですが、やはり大量の物資の輸送には海運業を欠かすことができないわけです。

14節にあるように、イタリアのプテオリには既にキリスト教の信徒が存在していました。「当地のユダヤ人街はローマに次いでイタリアでは二番目に古いものであった。」[8] マルタ島とは違って、ユダヤ人たちには既に福音信仰が伝えられていたわけです。そして、パウロたちもそこで歓待され、7日間滞在しています。それにしても、囚人であるパウロにこれほどの自由が与えられていたことには驚かされます。百人隊長ユリウスは既にクリスチャンになっていたと考える学者もいます。さて、パウロはここでも同じ信仰に立つ兄弟たちを励まし、伝道の働きをしたことでしょう。マルタ島でもそうでしたが、パウロたちの足跡は、まさにイエス・キリストの福音の足跡となっています。わたしたちの人生の足跡も、彼らと同じようにイエス・キリストの福音の足跡となっていくと思います。この点について話し合ってみましょう。

14節の後半に、「わたしたちはローマに着いた」とあります。「初代教会の活動にとって最も重要な出来事の一つを、ルカは実に簡潔な文によってあらわしている。」[9] 長い長い旅でした。使徒言行録の後半はこの一点に向かって書かれていたとも言えなくはないでしょう。しかし、すべてには時があります。パウロが以前にお告げを受けたこの帝国の首都に、ついに到着したのです。それは神の言葉の成就でした。また、聖書の学びをとおして共に旅してきたわたしたちにとっても、一つの到達点です。神の導きです。15節にはローマから信徒が迎えに来たとあります。パウロの到着を知った信徒たちは、ローマからアッピア街道を通って約80キロのところにあるアピイフォルムや約50キロのところにあるトレス・タベルまでパウロたちを迎えに来てくれたのです。彼らはルカにとって既知の人々だったのでしょうか。それはともかく、今日のようにメールや電話などのない時代に、彼らが距離をものともせず、連絡を取り合っていたことには驚かされます。それも伝道の働きの一環だったと言えるでしょう。ローマには既に教会が設立されていました。「この働きをした人として考えられるのはプリスキラとアキラである。」[10] 彼らはクラウディウス帝のユダヤ人退去令によって一時ローマを離れていたのですが、この勅令は紀元54年には解除され、クリスチャンたちはローマに戻ったのです。そして、ローマの信徒たちの出迎えを受け、パウロは神に感謝し大いに勇気づけられたとあります。これは不思議な点です。毒蛇をさえ恐れないパウロですが、信仰を同じくする兄弟姉妹との交わりには励まされたのです。それはイエス・キリストにおける霊の交わりだからでしょう。「聖徒の交わりは、毒を制し、いやす奇跡にまさるものです。」[11] キリスト者は常にこの交わりを必要としています。

最後に、一行はローマ市内に着きました。16節にあるように、パウロは番兵を一人つけられたが自由に住むことを許されました。牢獄に入れられることはなく、皇帝への上告の手続きが済むまで自由に宣教することが出来たのです。「パウロのローマでの拘留期間に、フィレモンへの手紙やコロサイの信徒への手紙などが書かれている。」[12] パウロに対する神のお告げはついに成就したのです。

[1] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、416頁

[2] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、522頁

[3] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、239頁

[4] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、473頁

[5]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、330頁

[6] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、240頁

[7] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、330頁

[8] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、527頁

[9] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、240頁

[10]  前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、241頁

[11] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、476頁

[12] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、528頁

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