今週の説教

束縛から解放されて新しく生きる道とは何か

「奴隷解放」       ヨハネ8:31-38

今回の聖書個所に、真理は自由にすると書いてあります。ただ、真理とは何かと考えると理解しにくいことです。しかし、自由なら誰でもわかります。コロナ禍がないなら、日本では、自由に旅行すること、自由に自分の気持ちを表現すること、自由に好きなものを買う事、自由に好きな仕事につく事が出来ます。

逆に、不自由な時代もあります。中国の上海では、ゼロ・コロナ政策のために、長い間外出禁止令がしかれました。これはとても困難なことです。食料が手に入らなくて餓死した人もいたそうです。そして、過去の時代には、奴隷の生活は不自由でした。150年くらい前にはアメリカにたくさんの黒人奴隷がいました。アメリカにいたときに、奴隷の貿易港だったチャールストンという町に行ったら、奴隷の競売が行われた場所が残っていました。アフリカから強制的に無理やり連れてこられた人々が、そこで物品のようにして売られたわけです。売られる身にとっては、とても不自由なことです。

驚くことに、18世紀後半の奴隷船総数は192隻であり、輸送能力は4万7146人であったそうです。1783年から93年までの10年間に、リバプールの奴隷船は30万3737人の奴隷を運び、純利益は1229万426ポンドで、利益率は30%であったといわれます。かなり効率の良い商売だったわけです。そして、アフリカからアメリカに運ばれた黒人奴隷は、300年の間に1500万人に達したといわれています。また、輸送中の奴隷の死亡率は、平均的には4分の1から3分の1といわれるので、300から500万人が海に捨てられたことになります。しかも、そうして運ばれた奴隷は18世紀末にはたった300万人しか生き残っていなかったというのです。

しかし、その奴隷制度も、1963年1月1日にリンカーン大統領が奴隷解放宣言に署名し廃止されました。1865年に南北戦争がおわってアメリカ中の奴隷が自由になりました。このリンカーン大統領は聖書をよく読んだ人であり、牧師になるための神学校でも学んだことのある人でした。だから、神の前のすべての人間の平等を信じ、奴隷解放をねがったのですね。

さてここで、聖書の話にもどりましょう。最初に述べたように、イエス様が、真理は人を自由にすると話したら、それに反対する人たちが出てきました。不思議なことです。誰でも自由を願うはずですのに、何故、反対したのでしょう。けれども、その人たちは言いました「わたしたちは惨めな奴隷なんかではありません。」そうなんです、彼らは自分たちが奴隷呼ばわれされたことに怒ったのです。そこで、イエス様は教えました、あなた方は外面は奴隷でないかもしれないけど、心が罪の奴隷になっている。それでも、自分が奴隷だと言われた人たちは、イエス様の教えに腹を立ててイエス様を殺そうとまでしました。自分たちが低く見られたようでプライドが傷ついたからです。わたしたちはどうでしょうか。自分が卑下されたら、或いは、あなたが悪いよと言われたら、反省しますか、それとも怒るのでしょうか。

ここに示されているが罪の実態です。罪というものは透明人間のように見えないのですが、黒い墨のような侮蔑の言葉を浴びせると姿を現すのです。そして、この罪から自分の力で自分を救う事はできません。自分にとっては、見えない敵のようなものです。あるいは、奴隷の足につけられていた思い鉄球のようなものです。

毎年、10月の最後の日曜日は宗教改革記念日ですが。約500年前にドイツで大騒ぎがおこりました。その当時のカトリック教会は、人間が良い人間になる努力をしたり、免罪符を買う事で、救われると教えていたのです。そのときマルチン・ルターという修道士がそれはおかしいよ、と疑問の声をあげたのです。何故かというと聖書には、努力によって救われるとは書かれていないからです。聖書には、むしろ、人間の努力は穢れた衣のようだと書かれています。あるいは、イエス様の言葉を借りれば、「白く塗った墓」であり、外面の体裁を整えただけなのです。聖書では、ローマ書にあるように、人間の努力ではなく、イエス様の十字架の犠牲と神のめぐみによって、無償で義とされる、つまり本当に自由で、楽しく、どんなことも嫌がらない、人に親切な人間に生まれ変わると教えられています。小さな集団であったキリスト教が驚くほど拡大したのは、こうした聖霊の働きによって多くの人々が生まれ変わっていったからです。一方で、現代の伝道不振は、生まれかあり以外の方法でキリスト教を伝えようとしているからだと思います。そのことを、ルターも聖書を読んで分かったわけです。ルター自身が生まれ変わったのです。ですから、ルターの時代にも最悪の疫病が流行しましたが、生まれ変わったルターは死を恐れず、病人んお看護に努力しました。ルターは、聖書の真理を理解したともいえるでしょう。だから、生活面での困難に束縛されない自由さを持ったのです。これは現在でも大切なことです。聖書の真理を理解するならば、自由を得ることができるのです。そして悟るでしょう。まさに自由を得ようとしていること自体が、その人を不自由にしていることを。聖書に書かれていることは、すぐに分からなくても、聖霊の助けによって必ずわかってきます。そして、真理がわたしたちを自由にします。これは解放と言ってもいいでしょう。奴隷解放と同じです。人が苦しめられている、実に多くの鉄鎖が砕け散り、自由の身となるのです。ジョン・バンヤンが書いた「天路歴程」という本に、この場面が鮮やかに描かれています。主人公であるクリスチャンは重荷を背負って坂道を登るという苦行を強いられていましたが、聖霊の助けによって丘の上の十字架を見上げると、背中の重荷が突然転げ落ち、嘘のように身が軽くなったのです。おそらくこれは、ジョン・バンヤン自身の体験に基づいているのでしょう。わたし自身も、似たような経験をしたことがあります。奴隷人から自由人への転換です。現代の教会も、これを教える必要がありますね。なぜなら、昔の奴隷制度はいまはありませんが、まだまだわたしたちの心は罪の奴隷です。この心の奴隷から自由にされると素晴らしい事がおこると聖書は教えています。罪から解放されたしるしは、嬉しい気持ち、安心感、親切心、規則正しい生活、感謝などです。

そしてそれを理解できたルターはドイツじゅうを回って信仰の大切さを伝えました。わたし自身も、インターネット教会を通して「罪からの解放」のメッセージを伝えているのも同じ理由です。それだけでなく、現代には現代の宗教改革が必要だと思います。それは教会改革です。教会が自分たちの維持や慰めのために存在するのではなく、苦しむ者の救いのために道筋を整える器となることです。

イエス・キリストの十字架の贖いの真理を理解するときに、いかり、わめき、盗み、人の悪口、自己中心性てきな欲などが消えていくでしょう。そして、エフェソ5:6以下には、「あなたは、以前は暗いところを歩いていたが、今はイエス様に結ばれて光の子として歩いていきなさい」と書いてあります。わたしたちも、光の中を歩ませていただきたいものです。宗教改革、あるいは個人の新生は一度きりの出来事ではなく日ごとに、罪の悔い改めの中から生じる、聖霊の賜物なのです。

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