聖書研究

宗教では救われないことを聖書から学ぶ

フィリピの信徒への手紙1章1節2節  文責 中川俊介

以前に学んだ「ヤコブの手紙」は、それを正典に加えるかどうかが数世紀にわたって論議されたものでした。しかし、今回の「フィリピの信徒への手紙」にはそのような問題はなく、現在ではこれがパウロの著作であることは広く認められています。執筆年代は紀元60年代前半と考えられ、パウロがローマの獄中から書いたものとみられています。パウロは自分が苦境に置かれていたにもかかわらず、その手紙の内容は汲めども尽きない喜びに満ちています。ですから、ある聖書学者はこう書いています、「ローマの牢獄の中で書かれた一通の手紙は、時代と文化を越えて、読む人々に苦しい生活の中の光として輝き続けている。」

使徒言行録によれば、紀元50年前後、パウロの第二回目の宣教旅行の際にアジア州(現在のトルコ北部)には行くなという聖霊のお告げを受け、トロアスから海を渡ってマケドニア州(ギリシア北部)の都市であるフィリピに行ったわけです。ここは紀元前4世紀にマケドニア王フィリポス2世(その息子はアレクサンダー大王)が首都と定め、金の採掘で栄えた町でした。その繁栄の故に、東方の「小ローマ」とも呼ばれたようです。また、パウロの時代にはローマの植民都市でしたので、文化的にも政治的にもローマ帝国の影響が強い場所でした。またそこの住民はローマ市民権を有し、非課税やその他の優遇を受けていました。パウロもローマ市民権を持っていましたから、そのことが彼の伝道活動の助けとなったことは言うまでもありません。フィリピで投獄されたときにも、この市民権が役に立ちました。そして、パウロとの出会いによって改宗した人々にもローマ市民権を有する異邦人が多かったようです。一方、ユダヤ人の居住者数はとても少なく、会堂もなく、川辺に集って礼拝していたようです。それにしても、ここはヨーロッパ大陸でパウロが伝道した最初の場所でしたので、その後10年ほどたっていますが、パウロにとっても思い入れの多い所であり、常に機会を見て連絡をとっていたわけです。

長い歴史の中で保存されたその連絡の一つが、この「フィリピの信徒への手紙」です。これは単なる個人消息ではなく、礼拝において朗読されることを意図して書かれたものです。「実に独創的で活動的な人であったパウロは、もっぱら愛するピリピ人に心を傾けてこの文章を書いた。」[1] パウロの手紙にはそれぞれ特徴があります。例えば、「ローマ信徒への手紙」には律法と福音の問題が扱われています。では、「フィリピの信徒への手紙」はどうでしょうか。パウロはこの手紙が礼拝で朗読され、何が伝えられることを期待していたのでしょうか。ある学者はこう書いています、「最初のところから、パウロはすぐに喜びについて語らずを得ない。そして手紙全体が喜びから生み出されており、ピリピ人の教会に向けられた彼のすべての思想に、喜びという確かな感情の調べが伴わっている。」[2] 時代は変わっても、パウロが説くキリストにある喜びの価値は減少していません。「キリストにおいてのみ、人は生き、その力は有効かつ効率的に用いられるのである。」[3] ですから、機械が人間にとって代わるような現代でも、わたしたちはキリストにおいて喜びの源泉を見出すことができると思います。わたしたちも、そのことを覚えつつ読み進んでいきたいものです。

1節の文頭で、パウロは自分の立場を述べますが、他の書簡と違ってパウロは自分が使徒であることを強調しません。「ガラテヤとかコリントとは違ってフィリピでは彼の使徒としての権威を疑うユダヤ教の一派が存在しなかったことも事実であろう。」[4] そこで、フィリピの信徒たちには、安心感を持ち、権威を強調する必要を感じなかったのでしょう。「それはこの手紙を読み進む中に、次第に明らかになることであるが、すでにこの冒頭の挨拶の言葉使いの中にも反映していると見てよい。」[5] パウロは自分を使徒と記述せず、僕(原語では奴隷)であると述べています。「奴隷とは自律性を持たない存在である。奴隷は主人の意思に従わなければならず、個人の選択の自由をもたない者であった。」[6] そして、この冒頭の挨拶は、パウロからだけではなく最愛の弟子であったテモテからのものでもありました。テモテもキリストの意思に自らを委ねた者でした。この手紙はテモテとの共著なのか、テモテが口述筆記したのかは定かではありません。たぶんそうではないでしょう。ただ、テモテは第二回目の宣教旅行の際に、パウロに同伴してフィリピにも行っていますし、その後もギリシア地域の教会の責任を負っていましたから、手紙の受取人である信者たちには親しい名前だったに違いありません。その点からも、パウロがフィリピの信徒たちを励まそうという姿勢が見えるのではないでしょうか。それに加えて、自分を奴隷として、自分の存在を最小限にとどめ、偉大な使徒の働きで教会が存続しているのではなく、すべてはイエス・キリストの働きに起因するのだと言っていると思います。「それはパウロがフィリピの信徒に対し、キリストが僕の身分になられたと同じように、互いが相手に対して、僕となるように勧めることを意味している。」[7] わたしたちも毎日の生活の中で、自己を第一にせず、むしろ奴隷として下位に置き、イエス・キリストの思いを最優先したいものです。それは、単に暗く従属的なことではなく、キリストと一致する輝きと喜びをもたらすことなのです。そして、逆説的なことですが、イエス・キリストの僕となって自由を失った者は、この世の様々な試練からは自由なのです。

さて、パウロの自己紹介とそれに続く手紙の受取人の側の表現が素晴らしいものです。そこには、「フィリピに住んでいるイエス・キリストにおける聖徒たち」また、「指導監督たちや奉仕者たちへ」と書かれています。ここだけ見ても、パウロが教会の構成をどのように考えていたかがわかります。「イエス・キリストにおける」とは英語でIN CHRISTですから、教会がイエス・キリストの体に譬えられ、体の中に頭や手などの役割があるように(第一コリント12:27以下参照)、教会において教理を伝える者、奉仕活動を組織する者、そして宣教活動全体を支える聖徒たちがいたわけです。それは単なる業務ではなく、キリストの救いの中に入れられている証なのです。奉仕者は執事とも呼ばれますが、それは教会で「各自が必要なものにあずかれるように配慮しなければならない。この仕事を果たすために執事がいた」[8]、からなのです。また、これを見て分かるように、一般信徒も聖徒なのですから、監督指導者より下位に立つものではありません。共にキリストの贖い、キリストの中に組み込まれて聖なる者とされているのです。

おそらく、フィリピの教会の問題がなかったわけではないでしょぅ。しかし、パウロはそこに信仰生活を続ける信徒たちを、聖徒と呼ぶことができました。ここでの「聖」とは「聖書」の聖と同じであり、無謬ということではなく、神に選ばれ、分離されて、他のものとは違う神に属する存在になったという意味です。ある意味で、パウロの言う奴隷と同じ事です。それは、「消極的には悪からの分離を、積極的には、神と奉仕への献身を意味している。」[9] 聖なる、というのは人間的な側面から分離され、キリストによる神の選びが先行することを第一義としていることなので、こうなるわけです。「恵みの先行」とも言えます。そして、教会は、神に選ばれ、神に属する存在となったイスラエルに与えられた恵みを、継承することになったのです。また、教会とは信徒一人一人の事にほかなりません。罪も咎もあるままに選ばれて、神に属するもの(聖徒)とみなされているのです。

また、指導監督たちや奉仕者たちは原語では複数形で書かれていますから、そうした人々が協力して牧会していたことがわかります。イエス様は当時の社会観を逆転させ、仕えられる者より、仕える者を優位におきました(マルコ10:43以下参照)。現代の教会で牧師と信徒役員が協力して宣教活動をするのも、イエス様の教えに従っているわけです。ところが、外国の教会で「ステファン・ミニストリー」と呼ばれる信徒伝道運動などが生まれたのは、初代教会と違って、現代の教会では牧師や神父だけに伝道を頼りがちになり、「聖徒」たちが自らの職務を怠る傾向があるからです。主から託されたミニストリー(牧会)の役割は、教会の群れを養い、育て、守ることでした。これを農夫の仕事と比べれば理解しやすいものです。種を蒔いて芽が出ても、これに肥料をやって良い場所に植えて養う必要があります。やがてだいぶ大きくなった苗も、果樹なら剪定や摘果を行い、野菜ならば間引きをしてさらに大きく育てます。そして、成長した作物は外敵から守り、病虫害からも守る必要があります。同じように洗礼を受けてクリスチャンになった者も、聖徒たちからのみ言葉による養い、訓戒や指導による育成、そして祈りによる悪魔からの守りが必要です。

冒頭の挨拶に続く2節では、朗読を聞く会衆への祝福が述べられます。それはわたしたちの父なる神とイエス・キリストから、恵みと平安があるようにという祈願です。パウロは当時の習慣的な挨拶の形式を、キリスト教的なものに変えて用いています。「パウロの手紙に見られるキリスト教的特徴は重要であり、これらの始まりの数節で神の名が頻繁に言及されているのは、注目すべき筆致である。」[10] 簡単なことですが、わたしたちは神の属性として「父なる」という部分を忘れがちです。無機質な神を想起しやすいものです。わたしたちを理解してくれて、失敗を批判するのではなく擁護し、教導し、温かく支えてくれる父のような神の存在を忘れてはいけません。イエス様が常に「アッパ、つまり父ちゃん」なる神よと祈ったのが原点だと思います。パウロもそれを踏襲しています。この父から与えられる恵みとは何でしょうか。原語ではカリスというギリシア語が用いられています。これはカリスマのカリスです。無償の賜物の事です。「それは神から人間に対する自由で自然で絶対的な温情をあらわしている。そこで、それは疑いや律法、人間の業績、罪などと対比されることが多い。」[11] 神がわたしたちの善行を条件とせず、一方的に無代価で与えられる、好意ある取り計らいのことです。また、もう一つの平安とは何でしょうか。これにはエイレーネというギリシア語が用いられており、平和という訳もありますが、神との平和とするのが一番内容的に正しいでしょう。わたしたちの問題の根源は、実は、環境や周囲の出来事ではなく、神との和解が不完全だということにあるからです。イエス・キリストの十字架の贖いによって達成されたのは、神との和解です。関係の回復ともいえることであり、「聖」なる存在として神に結ばれ、神に属することなのです。それがパウロの教える救いの原点です。神との和解は、わたしたちと隣人との和解、わたしたちと自然との和解へと広がっていきます。その逆ではありません。わたしたちの努力や誠意によって和解が起こるのではありません。イエス・キリストによるものです。

もとは北アイルランドのテロリストだったデイヴィッド・ハミルトンという人が、聖書を読み、キリストを知って改心し、後には牧師になりました。その人が証しの中で、「宗教(レリジオン)ではなく、イエス・キリストとの関係(リレーション)によって救われた」、と言いました。「まさしくイエスとの関係がキリスト教の全体である」[12]、と言えるのです。  さらに、この手紙の最後だけではなく、パウロは冒頭にも祝祷していると言えます。それは、実際は、パウロを通して神が祝祷して下さっていると考えてよいのです。祝祷に始まり祝祷に終わる手紙が「フィリピの信徒への手紙」であり、わたしたちの人生もそれを受け取り続ける人生でありたいものです。また、わたしたちが善悪の判断に左右されずに他者を祝福できるときに、「それはまさに神がわれわれのうちに臨在するからにほかならない」[13]、と言えるでしょう

[1] ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、42頁

[2] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、31頁

[3] ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、クラーク社、1897年、4頁

[4] 前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、2頁

[5] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、10頁

[6] ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、4頁

[7] クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、36頁

[8] シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、3頁

[9] マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、58頁

[10] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、56頁

[11] 前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、4頁

[12] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、46頁

[13] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、40頁

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