福音とは未知のものではなく喜びの再発見だと知る読む説教
「ダンス・ウィズ・ゴッド」 ルカ20:27-40
今日の旧約聖書の日課であるマラキ書には「あなたは子牛のように躍り出て跳びまわる。」(マラキ3:20)と書いてあります。聖書にはダンスするという表現がみられます。「主の御前でダビデは力のかぎり踊った。」(サムエル記下6:14)しかし、ダビデの妻であった王妃のミカルは。踊る姿を見て心の内にさげすんだと書いてあります。だぶん、ミカルは神に祝されて喜び踊る経験がなかったのでしょう。わたしたちも、本当にうれしい時に踊りたくなるでしょう。これを、表しているのは沖縄の人たちでしょうか。選挙に当選した際に候補者が踊ります。それが実に慣れているのです。以前に、沖縄から来ている学生に、このことを聞いたことがあります。すると、やはり、沖縄の人たちは心の喜びを表して踊ることがあるのだと言いました。聖書を見ますと、聖書の民であるユダヤ人も踊ったようです。「主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名をとなえ、感謝をささげよ。」(詩編30:5)とあり、そのあと、「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、荒布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」(詩編30:12)とあります。まさに、ダンス・ウィズ・ゴッドではないでしょうか。
ダンスと言えば、ピコ太郎という人が、「ペンパイナポーアッポーペン」という45秒の最短時間の歌とダンスで、アメリカのヒットチャート100位以内に入り、ギネス記録となったことがありました。動画の視聴回数は7000万回以上だったそうです。最初はPPAPで始まります。I have a pen. I have an apple. Uhn applepen. 考えてみれば愚かな歌とダンスです。でも楽しそうです。それが人気のもとだったのではないでしょうか。ダビデは神に感謝して踊りました。しかし、それを遠くから見ていた妻のミカルには神への喜びもなかったために、軽蔑の心しか生まれてこなかったのです。
今日の福音書の記事にはサドカイ人がでてきます。サドカイ派の人たちは、もともとダビデ王の祭司の階級であって、自分たちの伝統に誇りを持っていてそれを変えようとはしなかったわけです。彼らが復活を信じなかったという事は近代的な考えに近いと思いやすいのですが、逆であって、彼らは比較的新しいイザヤ書やダニエル書などの預言書に出て来るメシアとか復活の考えを受け入れず、最も古いモーセ五書の律法の掟だけを信じていた保守的な人々だったわけです。羊飼いの出身で王になったダビデに比べて、妻のミカルはサウル王の娘でしたからやはり品位とか威厳を大切にする保守的な人だったと思います。わたしたちはどうでしょうか。ダビデのように喜びを表して踊る方でしょうか。沖縄県民のようでしょうか。それとも、王妃ミカルのように厳粛さを大切にするのでしょうか。聖書を見ると、神はダビデを喜ばれ、ミカルは顧みられなかったようです。
さて、サドカイ派の人たちは復活や来世を信じていなかったので律法を守っていればよいとし、将来の事を考えても無意味だと思っていたのでしょう。ですから、政治的にもローマ政府と協力できたのです。現実主義で、宗教は二の次であったわけです。ただ、現代のユダヤ教はどうでしょうか。わたしがイスラエルに留学していたときに、ユダヤ教の冬のお祭りの一つであるプリムに参加したことがあります。プリムは、エステル記にあるように、紀元5世紀に外国でのホロコースト(丸焼きの意味、大量虐殺)から救われたことを記念する祭りです。この日には、普段は厳粛で物静かなユダヤ人の学者も、大酒を飲んでユダヤ会堂で踊っていました。これを、神を知らない人がみたら、ミカルのように軽蔑するかもしれません。
福音書をみますと、サドカイ人たちはモーセの言葉(申命記25:5)を引用して、イエス様を困らせようとしました。当時、夫が死んだ場合には、夫の兄弟が第二夫人か第三夫人にして世話をしなければならなかったわけです。ただ、このサドカイ派の人はこの律法を例にして、もし次々と世話してくれる人が先に亡くなり、あとに残された妻も亡くなった場合、そのあとで最初の夫やその兄弟たち、そして妻が復活したら、全員集合になってしまい、妻は一体誰の妻として認定されるのだろうか、と問うたのです。だから復活なんてありえない、そう言いたかったのでしょう。
しかし、こんな質問にもイエス様は困りませんでした。イエス様は、彼らの隠れた動機を見破ったと思います。この人たちは、自分たちが信じているモーセ五書だけを守りたいのだなとわかったと思います。いわば律法と規則ですね。
イエス様は答えました。この世の事柄と次の世の事柄はちがう。あなたたちはこの世のやり方で、神が与える新しい世を考えてはいけない。神の世界は、この世の基準とは違う。だから、イエス様は後の者が先になると教えた訳です。そして、今日は親子礼拝で、子供たちの祝福式がありますが、イエス様は「はっきり言っておく、子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:15)、と教えられたのです。イエス様の教えは一貫していて、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)とも教えています。主の前で踊ったダビデもサウル王が娘のミカルと結婚させると見せかけて、敵の手によって殺害しようと思った時、その申し出をすぐには受けず、「わたしは貧しく、身分も低い者です。」(サムエル記上18:23)、と断っています。また、詩編でもダビデの詩として、「主よ、人は何ものなので、あなたはこれをかえりみ、人の子は何ものなので、これをみこころに、とめられるのですか。人は息にひとしく、その日は過ぎゆく影にひとしいのです。」(詩編144:3以下、口語訳)、と書いてあります。
神を信じることは、小さき、取るに足らないものを愛してくださる神を知ることです。この世は逆です。偉大なもの、優れたもの、知恵あるものを愛します。つまり、超自然的な世界に対して無知なのです。アメリカの映画でトム・ハンクスが主演した「BIG」という映画がありました。子供が突然に大人になって、力ある者を愛する大人世界に入るのですが、最後は子どもにもどって、子どもである喜びを再発見するのが結末です。
イエス様は教えました。次の世では結婚もないから、誰が誰の妻だとかは関係ない。次の世とは、復活の世であり、永遠の命の世である。そして、永遠の命を受けて復活する者は、人間というより天使に等しく、死ぬこともない神の愛する子供となるのです。
今日、わたしたちも子どもにもどって、神の子どもである喜びを再発見できたら素晴らしいことです。神が子どもや、弱いもの、罪深いもの、あとに残されたものを愛してくださる方であると知る時、わたしたちもまた、ダビデと共に喜び踊り、まさにダンス・ウィズ・ゴッドとなるでしょう。まさに、「あなたは子牛のように躍り出て跳びまわる。」というマラキ書の預言が実現するのです。