閑話休題

松本清張の「砂の器」に見る善人の試練

ユーチューブで1974年のテレビドラマ「砂の器」を見ました。最初は、70年代の昭和の風景などが興味深くて見ていました。ところが、この松本清張の原作である「砂の器」には、ひとつの底流のようなものが存在することに気付きました。それは、宮沢賢治の詩である「雨にも負けず」でした。場面のところどころに、この詩の朗読が入っています。宮沢賢治が書いたこの詩には、モデルとなった人物がいて、まさにその詩に書かれているような善人のクリスチャンであった斎藤宗次郎という人でした。そして、わかったのは、惨殺された三上という元巡査は、斎藤宗次郎のような善人だったわけです。仲代達也が演じる刑事、今西は最初に、怨恨が殺人の理由だと思っていました。しかし、最後に分かったのは、三上が善人だからゆえに殺されたのだということです。それは、三上の善意が、天才音楽家と称賛された和賀の隠したい過去を暴くことになったからです。ここに、松本清張の不思議なレトリックを見る思いでした。しかし、それは単なるレトリックではなく、聖書を見ると、善人であったイエス・キリストは、当時の社会上層部の人々の憎しみを買って十字架刑で惨殺されています。先に述べた、斎藤宗次郎の場合にも、キリスト教徒への差別と迫害によって自分の娘を失っています。おそらく、現代の日本でも、またこの記事を見て下さっている人々の周囲にも、善人であるからゆえに、苦汁を飲まされている人がいるはずです。解決はあるのでしょうか。現世にはないと思います。使徒言行録7章に記載されているステファノの殉教記事を見るとわかります。この世にある、憎しみから救われる道はありません。ただ、本当の解決は、来世にあるというのが聖書の教えです。ルカ福音書16章19節以下にその教えが顕著に描かれています。前述の斎藤宗次郎が師事した内村鑑三は、来世信仰を持っていました。この世ですべての決着がつくのではありません。松本清張の見た現実である、善人の受難の彼方に、来世信仰を叙述することができたなら、彼はおそらく世界的な作家としての評価を受けたことでしょう。それにしても、人間の善と、人間の罪とをえぐりだした「砂の器」は本当に考えさせられる作品でした。

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