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内村鑑三先生が「無教会主義」を唱えた理由

わたしが神学生のころから、内村鑑三先生の著作は読んでいました。ただし、外国ではそれほど評価されておらず、北森嘉蔵の「神の痛みの神学」の方がよく知られていました。「神の痛みの神学」の方は、贖罪論についての新しい試みでした。一方、内村先生の主張した「無教会主義」の方は、キリスト教の歴史が長く、教会論においても不動の観念を持っている西洋社会では、受け入れがたいものだったと思います。わたし自身も若いころは西洋式の教会論で凝り固まっていましたので、内村先生の「無教会主義」には興味をもてませんでした。なにしろ、初代教会教父といわれた神学者たちが提唱した、Extra ecclesia nullus salus(教会の外に救いなし)という思想は、カトリック教会だけでなく、伝統的なプロテスタント教会でも一貫していたからです。ただ、改めて無教会主義者だった矢内原忠雄先生の意見などを読んでみると、納得できる部分がたくさんあります。コロナによって、この地上の組織的教会は大打撃を受けましたが、霊的な教会には微塵の変化もありません。教会とは、日曜日の朝に行く組織的な団体だけではありません。救い主イエス・キリストという幹につながれている枝である生命体のことを教会というのです。おそらく、明治時代の日本人として、西洋文化の欺瞞性とその組織の問題性に敏感だった内村鑑三先生は、そうした自己拡大的な組織運動としての教会に見切りをつけたのでしょう。現代でも、この地上的な組織教会は、キリストの体とはいいがたい面があり、病弱であり、維持献金することもできず、日曜日も働かなくては生活が成り立たない人々には無縁な存在となっているのです。イエス・キリストの生涯はまさに正反対でした。病気の人がいれば、行ってその苦しみを理解し、全力で癒しの働きを行いました。ユダヤ教の礼拝堂では、生活費を削ってほんの少しの献金をした貧しい寡婦の行為を称賛しました。当時の安息日の習慣を破り、必要なことは安息日であってもしてよいのだと教えました。イエス・キリストこそ、カルト的宗教の真逆の生き方をした人でした。イエス・キリストこそ、当時のユダヤ教という重層的な組織宗教に真っ向から対決した野人であり、無教会主義者だったわけです。イエス・キリストと直接の師弟関係になかったパウロは、残念ながら、野人とはいいがたく、伝道において組織を拡大していきました。その恩恵を、多大に受けているのが現代のキリスト教です。しかしどうでしょうか。恩恵と同時に、組織(これは教会そのものではない)が教会と同一視されることになって、人間の原罪からくる種々の欲望の巣になってしまった面もあるのではないでしょうか。初代教会の時代にもすでにその兆候はみられました。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」(ヤコブの手紙2章2節以下)ヤコブは組織としての教会が持つ問題性に敏感だったわけです。ルターなどは、実践面重視のヤコブ書を「藁の書」として排斥しましたが、逆に、ドイツに深遠な信仰義認の神学があっても、それはナチス・ドイツの暴虐を止めることはできなかったのです。ボンヘッファーなどの少数の神学者を除いて、当時のドイツ・ルーテル教会は、ウクライナ侵攻を祝福する現代のロシア正教会とあまり変わらなかったわけです。ですから、ここに無教会主義の存在意義もあるわけです。ただ、わたし自身としては、サクラメント(聖餐式、洗礼などの聖礼典)を否定する気持ちはありません。そして、それは組織としての教会でなくても可能なはずです。

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