今週の説教

眼には見えない可能性を信じるクリスマスの原点について知る読む説教

「受胎告知」         ルカ1:26-38

今回の福音書の箇所には、「イエスの誕生が予告される」という副題がついています。この受胎告知の深い意味は何でしょうか。まず、マリアさんにイエス・キリストが宿ったことを天使が知らせました。マリアはダビデ家の子孫であるヨセフの許嫁でした。マリアの親戚にはザカリアという神殿の祭司がいました。信仰深い家柄だったのでしょう。レオナルド・ダヴィンチが描いた受胎告知の絵があります。そこには天使ガブリエルが描かれています。(最近、ダヴィンチのサルバトールムンディ(世の救い主の意味)が510億円でうれて話題になりました。)それはともかく、ガブリエルはミカエルラファエルと共に三大天使の一人であると考えられています。この天使も、それ自体が尊いのではなく、神から遣わされているメッセンジャーだったから尊いという事が大切です。絵の中で、天使は右手で祝福し、左手には白百合を持っています。これは純潔の印と考えられています。マリアの方は右手を聖書の上に置き、指でイザヤ書7章14節の預言「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」、を示しています。つまり偶然ではなく、神の預言の実現ということが暗示されています。また左手を掲げて天使の祝福を受ける姿勢をとり、その顔には敬虔な思いが溢れています。

クリスマスは、まさに受胎告知に始まります。神が一人の女性の人生を変えたことが、世界の歴史を変えることになりました。サルバトールムンディの誕生です。クリスマスは世界中で祝われていますが、先ず、マリアと天使の出会いの中に最初のお祝いがあったわけです。レオナルド・ダヴィンチの絵にある安らかなマリアの顔には、神を信じる者の平安が示されています。「おめでとう、恵まれた方」、と天使は告げました。告知はお告げであり、知らせであり、福音です。ですから、クリスマスの始まりは「おめでとう、恵まれた方」という告知にあります。この原文のギリシア語を見ると、カイレー、ケカイトーメネー(語幹カイトウ)と書かれており、それは無償の賜物を受けた者への挨拶という意味です。もともとは、おめでとうという意味ではなく、「こんにちは、無償の賜物を受けた者よ」という意味です。これは現在完了受動態で書いてあるため、この時に突然マリアが恵まれたのではなく、主の恵みに生かされ続けてきた人であったという意味が込められています。つまり、受胎告知は、「こんにちは、これまでずっと無償の賜物を受けてきたマリアよ」ということであって、わたしたちにも向けられる神の限りない恵みと共通だと理解してもいいでしょう。この現在完了形の意味が、わたしたち自身にも向けられていることを「悟る」ならば、まさに心の中に、サルバトールムンディが宿るのです。それなしには、救いという現象は、鏡に映った自分の姿ソックリで、鏡の前を離れれば消えてしまう映像に過ぎません。救いが「受肉」することの大切さを聖書は教えています。その価値は、510億円を遙かに上回るものです。そして、この語りかけ自体がアヴェ・マリアであり、同時に、聖母マリアの祈りとなっています。

恵みあふれる聖マリア、
主はあなたとともにおられます。
主はあなたを選び、祝福し、
あなたの子イエスも祝福されました。
神の母聖マリア、
罪深いわたしたちのために、
今も、死を迎える時も祈って下さい。
アーメン

ただ、聖書では、天使もマリアのことも賞賛しませんし、神の母聖マリアという表現もありません。なぜなら、イエス・キリストの降誕の奇跡が中心であり、マリアという人物が中心ではないからです。神の恩寵が中心です。聖書では、その辺はキチンと線が引かれています。マリアは、神聖化されていません。また、後の弟子たちも神聖化されていません。わたしたちと同じです。ですから、そうした像を造ったり、拝んだりすることは、聖書では勧められていません。

それにしても、まだ結婚もしていないマリアにとって、これは不可能なお告げでした。しかし、天使ガブリエルは言いました、「神に不可能なことは何もない。」この言葉は、イエス様ご自身も好んで使った言葉で、おそらくお母さんのマリアから伝え聞かされた言葉でしょう。「神に不可能なことは何もない。」というのが実は信仰の奥義なのです。わたし自身も学生だった頃に、この言葉によって救われました。(自分を見つめてはいけないのです。)

この時、マリアはこの天使の告知を信じました。信仰とは、目に見えない可能性を信じること、そこに神の意思を確信することです。わたしたちにも、不可能の中で可能性を信じることがあるでしょう。だいぶ前に、NHKの番組で「プロジェクトX」というドキュメンタリーがありました。あれに登場した人々も、いわば、見えない可能性を信じたのではないでしょうか。クリスマスも同じです。見えない可能性の、不確定性ではなく、見えない可能性の絶対性です。それがまさに、受胎告知と同じなのです。神の無償の賜物を絶対的に信じること。それが、クリスマスの始まりだといえます。

キリスト教が何であるかと問われれば、イエス・キリストの福音だと、わたしは答えるでしょう。そして、この福音とは良い知らせ、つまり告知です。受胎告知です。受肉です。この告知をありがたく受領するのが信仰ですが、それは観念としての信仰ではなく、わたしたちの人間性の深い場所に打ち込まれたクイの様に普遍的・絶対的なものです。それがどのように良い知らせなのかは聖書を読むとわかります。聖書が告知しているのは、罪人でありながらも、恩寵に包まれていて平安であること、つまり胎児のように母体の中で守られている平安と安心感があるという告知です。神の告知は、コロナ禍で苦しもムンディ(世界)の人々にも、聖書の言葉を通して、「こんにちは、これまでずっと無償の賜物を受けてきたマリアよ」と伝えられています。

しかし、この呼びかけ、そして神の中にある無限の可能性、それを単に知るだけだったとしたらなんという悲劇でしょうか。それは、ガラス越しに豪華な料理を見ていて、空腹な自分は手を伸ばすことができないのと同じです。味わうこともできないし、お腹を満たすこともできません。世の中で、多くのクリスチャンもまだこの状態です。しかし、レオナルド・ダヴィンチの有名な絵の中のマリアがほかの絵のものと違うのは、マリアの最初の戸惑いは描かれず、ルカ1:38にある「お言葉どおり、この身になりますように」という信仰の安心感をあらわしていることです。その通りになること、恵みを信じることが、信仰者の原点ともいえます。神が宿るとは、腹の底から信じることです。逆に、罪人というのは、神を信じられない人、という意味です。神を信じていることは、すでに聖霊の働きであって、救い主をとおして、まだ見えない神の可能性を信じてやまないことです。

聖霊といえば、教会の誕生も聖霊が降ることで始まりました。イエス様の洗礼の際にも聖霊が降りました。神の絶対的愛を信じたのです。これは一つの奇跡です。ある神学者はこう書いています。「洗礼を受けるという時、あまり教会にきたこともない人が、突然聖霊を受ける場合があります。しかも、それはいい加減なことではないのです。すでに立派に霊の洗礼をうけているのです。不思議ですね。」わたし自身も、教会に行って数か月で洗礼をうけました。それでも、神の絶対愛にたいする神から与えられた信仰は何十年もたった今でも変わりがありません。つまり、人間の判断ではないのです。神の恩寵の世界に生まれ変わらせていただくのです。それはインマヌエルの現実であり、つまり神がいまここに私と共におられるという現実のことなのです。これこそ、「受胎告知」そのものです。イエス様がインマヌエルであり、イエス様の体なる教会に召されたわたしたちもインマヌエルで新生するというのが、「受胎告知」の内容なのです。そして、この全能の神の福音の光が届かないような暗い心、暗い場所は存在しないのです。

光を照らすといえば、こんな話があります。昔々、ある外国の町に貧乏な靴屋さんがいました。いつも楽しそうに仕事していました。そこを通りかかった学生が、「お金もなさそうなのにどうして、いつも嬉しそうなのですか」と尋ねました。靴屋はいいました、「わしは立派な王様の息子、つまり王子様なのです。」それを聞くと学生は軽蔑して笑いながら行ってしまいました。一週間後、学生が靴屋の前を通り過ぎた時、馬鹿にして「幸せな王子様こんにちは」と挨拶しました。靴屋さんは「わたしの言ったことの証拠はこの本に書いてあります。」そういって、聖書を見せ、わたしたちが神さまの愛する子に生まれ変わった王子であることを説明し、学生は救われました。まさに、受胎告知の深い意味とは、神の子イエス・キリストの誕生の知らせ、そしてわたしたちも信仰告白によって神の子として、王の子供として誕生させて頂く幸せな知らせを今日も受けているという事なのです。これは、ほかでもない、この知らせを読んでいるわたしたち自身に、神から与えられているクリスマスのプレゼントなのです。プレゼントと言えば、凍える暗い建物の中でクリスマスを迎えようとしているウクライナの人々が、暖炉を囲んで明るい笑顔で過ごせる日が必ず与えられることを信じていきたいと思います。

 

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