印西インターネット教会

クリスマスは神の愛のプレゼントの日だと知る説教

「吾が罪を清めて輝く聖樹かな」   ルカ1:39-45

クリスマスと言えばそのシンボルは、クリスマス・ツリーですね。日本語で、特に俳句の世界では、聖樹と呼ばれます。それはルターの発明です。そして、クリスマス・カラーは赤と白と緑です。赤は愛の色、白は光、緑は永遠の命のしるしです。そして、聖書に神は愛であり、神は光であり、神は命であることが、聖樹に現わされています。「吾が罪を清めて輝く聖樹かな」その神の愛、光、命が罪の清めとなるのです。

今日の箇所には、マリアが親類のエリザベトを尋ねたことが書かれています。マリアの住んでいた場所は北のナザレで、エリザベトは200キロくらい南のユダですから、楽な旅ではなかったと思います。マリアが旅したユダ地方は、聖書に書いてあるように、山地でした。有名なエルサレムという町でさえ、標高千メートルの山の上にあります。その他の都市も、やはり山の上です。ちなみに北部の町ですがナザレもやはり山の上にあります。こうした困難を気にしなかったマリアは、行動的な人であり、神のお告げを信じる信仰的な人だったことがわかります。つまり、信仰と行動とは同じ意味を持っているのです。日本では「棚から牡丹餅」というのが信仰と間違えられています。海外の信仰者は行動的です。先日話した、発明家のトーマス・エジソンも行動的でした。わたしたちも信仰が身についてくると行動的になるでしょう。無理はいりません。それは神の働きだからです。信仰がないなら祈れば与えられるのです。無理に行動すると、それは人間的な努力ですから疲れてしまします。

天使ガブリエルのお告げを聞いたマリアは、「お言葉通りになりますように」と答えて信仰を表しました。マリアは親族のエリサベトに挨拶しましたが、エリサベトのお腹の中で赤ちゃんが動いたといいます。この赤ちゃんが、後にイエス様に洗礼を授ける人である、バプテスマのヨハネになったというのはこのときに誰が想像できたでしょうか。ヨハネもイエス様も人々の不信仰と憎しみによって処刑されることになるとはだれが想像できたでしょうか。人間的にみるならば、悲劇の始まりです。しかし、神の救いの歴史では、救いの完成の喜びの時なのです。マリアに対してエリザベトは聖霊に満たされて語りました。これは聖霊による言葉ですから人間的な配慮の言葉とは違います。また、エリザベトはマリアの将来を心配するのではなく、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう」と祝福したのです。生まれてくる子が、主であり、神の救い主なのです。

ここから、わかるように、イエス様の誕生の初めは、神の祝福と愛が表されたものでした。神の子を宿した者がは「なんと幸いでしょう」ということです。それは二千年前の事です。でも現在でも、神の子を宿すことはあります。戦後の勧告でチョーヨンギルという牧師が貧しいスラム街で伝道を始めました。伝道には自転車が欲しいと祈っていました。するとあるとき、自転車は必ず与えられるという確信が与えられました。チョーヨンギル牧師は嬉しくなって、「自転車が与えられた、自転車が与えられた」とスラム街の人々に告げて回りました。周囲の人は不思議に思って、「自転車はどこにあるのだ」と尋ねました。チョーヨンギル牧師は少し困ってここだ、と言っておなかをたたきました。次の日から、スラム街を歩くと、人々がチョーヨンギル牧師をみてヒソヒソ話したり、笑いを浮かべています。チョーヨンギル牧師が彼らに聞いてみると、なんと人々はチョーヨンギル牧師をおなかに自転車を身ごもった牧師と言っていたのだそうです。大変でした。しかしその後、このことを気の毒に思った外国の宣教師が中古の自転車をプレゼントしてくれたそうです。しかし、自転車だけでなくチョーヨンギル牧師の心に宿った言葉は実現し、韓国最大の50万人教会を生み出しています。物事が実現する前に言葉が与えられそれが後になって、現実化するのです。マリアとエリザベトの場合もそれを経験したわけです。

実に聖霊とは、神の愛を告げるものです。イエス様がヨハネから洗礼を受けた時も、鳩のかたちで聖霊がくだり、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」というお告げがありました。聖霊によって、神の愛が明らかにされるのです。パウロも言います。「聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれているのです」(ローマ5:5)実はそのことが、罪の贖いなのです。人間の条件的な愛の反対語は憎しみです。ところが神の無条件の愛というのは、それ自体が神ですから、その反対語は罪です。火が水でしか消せないのは誰でも知っているでしょう。しかし、罪を消すのは、神の愛であると、どれだけの人が知っているでしょう。この世では、罪の結果、犯罪に走った人を正すために、監獄に入れて反省させます。でもほとんどの人が再犯してしまいます。日本の再犯率はどのくらいだと思いますか。50パーセントです。いくら刑を厳しくしても同じ事を繰り返してしまう。愛がないからです。一方、世界で再犯率が低いのは、ルーテル教会が国教だったノルウェーです。再犯率はなんと16パーセントです。囚人に対して愛を教えているからです。その信条がすごいのです。「どんな危険人物であろうと、人間らしさを感じることができれば、規則に従って生活できるようになる、悪人のように扱われては、更生しない。」その背後にあるのは愛の深いキリスト教思想です。

人生において第一に必要なのは、この神の愛です。衣食住が満たされても、この愛がなければ空しい。衣食住に欠けてもこの愛があれば十分です。これは無条件の愛です。存在の絶対的な肯定であるとも言えます。わたしたちも犯罪者と同じだと聖書は教えています。わたしたちの更生に必要なのは、厳しい処罰や災難ではなく、愛なのだと聖書は告げます。「吾が罪を清めて輝く聖樹かな」この愛の受肉こそイエス・キリストです。クリスマスは、暗き、悩み多き、罪多き世に神の愛のプレゼントが与えられたことのしるしです。イザヤ書9章にあります。わたしたちが神に愛された者であることを知るために、イエス様は自分を犠牲にして十字架の苦しみを受けて下さったのです。それが、イエス様の降誕の目的です。

この愛には、3つの意味があります。第一に受け入れる愛です。イエス様は罪人を責めることがありません。あなたが変わってくれたら愛するよともいいません。そのままの存在を愛する愛です。第二に、相手の欠点をカバーする愛です。親が赤ちゃんのおむつをとりかえたり、汚れを掃除するように、愛は、愛する対象に負担や責任を負わせず、黙々と後始末をするのです。そして第三は、生まれ変わらせる愛です。マグダラのマリアもパウロも愛する事の出来ない人だったでしょう。ところが、イエス様の十字架の準備のために高価な香油もささげること、世界伝道が自然にできるように生まれわったのです。

昔、ある家に不良の弟と、弟思いの立派な兄の双子の兄弟がいました、兄は弟が生まれ変わるように祈っていました。ある日、弟が血の付いたナイフを持って家に帰りました。誤って人を殺し追われていると言いました。洋服も血に染まっていました。それを聞いて兄は、その服を自分が着ました。そして弟の身代わりになって捕まり処刑されました。死ぬ前に書いた遺書が弟に届きました。「兄さんは死んでいくが、兄さんの死を無駄にしてはいけないよ。」弟は反省して自首しましたが、もう処罰は終わったのであなたは赦されたといわれました。この愛する兄がわたしたちの救い主イエス・キリストです。「吾が罪を清めて輝く聖樹かな」

 

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