「愛されるために生まれて」 マタイ3:13-17
今日の福音書の日課はイエス様が洗礼を受けた時の状況を語る部分です。洗礼というのは、新しく生まれ変わるためにあります。人生には過ちがあり、心には古傷があります。そういうものが全部洗い流されて、新しい人間としてやり直せるとしたら、本当に素晴らしいことです。しかし、聖書が教える新しく生まれ変わるというのは、どういう意味でしょうか。
さて、イエス様は故郷のナザレからヨハネが活動していたヨルダン川まで来たわけです。数日はかかる道のりだったことでしょう。ここで、ヨハネの福音書を見ますと「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。」(ヨハネ15:16)と書かれています。ここに示されているのは、わたしたちが普段何気なく考える動機や行動の原理とは、まったくちがうものです。信仰が理解できてくるとは、何かを狂信的に信じるのではなく、自分の思考とは違った道が示されると知ることです。つまり、神がお招きになっているのだというのです。敷衍して言えば、これを読んでくださっている皆さんの人生にも、これを書いているわたしの人生にも、神様は語りかけておられるのです。礼拝にわたしたちが行くのも同じ原理です。自分が選んで行っていると思っている人は、そこに魅力が感じられなくなったり、少しでも不快感が生じると、礼拝しなくなるでしょう。招かれていることの意識がなく、自分が基準だからです。牧師になる試験の重要点も、この招かれているという点であり、自分で職業を選んでいるという考えを持っている人は、残念ながら不合格となります。これを召命観といいます。そして、イエス様の絶対的な基準も神の招きでした。ですから、イエス様は神の招きに無条件に従い、遠い道のりをものともせず、ヨハネのところまで行ったのです。
イエス様が、ナザレを出たという事は大きな出来事だったと思います。それまでの、イエス様は大工の仕事をしていました。しかし、30歳で伝道者として世に出たのです。わたしたちの人生にも、就職、結婚、引っ越し、転職、などの転機があります。そこにも神さまの与える導きがあることを覚えるならば、不必要なストレスとか失望感は避けることができるでしょう。
ただ、ここに問題がおこりました。ヨハネはイエス様が来たことを率直に喜ぶことができなかったのです。ヨハネの洗礼は、罪びとに対する罪の赦しの洗礼だったからです。ヨハネは直感的にイエス様が神と一体の人であることを感じました。ですから、罪の赦しの洗礼がイエス様には相応しくなく、イエス様は罪の告白をする必要もない聖なる方だと直感したのです。これは困ったことでした。しかし、イエス様の伝道生活の第一歩がこの困った状況からの出発だったことは興味深いことです。洗礼を受けに行ったのに断られてしまったのです。出発点から挫折したわけです。わたしたちだって、出発点で、すでに挫折する場合があります。それをどう解釈したらよいのでしょうか。
15節にその困った時の解決として、イエス様の言葉が記録されています。イエス様は、正しい事を行うのはふさわしいことだと語っています。困ったら何が正しいかを考える必要があります。このイエス様の言葉に意味は、正確には、「義をすべて満たすのはわたしたちにふさわしいことです」、ということです。マタイの福音書では、この「義」の意味が特に重要視されています。それは、神の正しい支配、のことです。ですから人間の側から言えば、神のみ心に対する服従という意味にもなります。言葉をかえると、神の恵みが功績なしに与えられることと、自分の行為によっては神との正しい関係に入ることはできないということです。つまり、イエス様の言われたのを現代語ふうに訳せば「確かに罪なき神の子であるわたしが、罪の赦しの洗礼を受けるというのはあなたの気持からは認めにくいことでしょう。しかし、わたしがここに来たのは神のみ心への服従の結果ですから、わたしの功績やわたしが罪ない存在であるということとは無関係です。いま二人でなすべきことは、共に神のみ心に従い、あなたは洗礼を授け、わたしは洗礼を受けることではないでしょうか」ということです。
そこでヨハネは合意しました。ヨハネも愚かな人ではなかったのです、「義」ということをすぐに理解できたのです。そして彼は、イエス様に罪の赦しの洗礼を授けました。おそらく、ヨハネにはその時には理解できていなかったのでしょうが、この「罪の赦しの洗礼」は罪なき神の子イエス・キリストが、罪びとの立場へと身を低くし、身代わりとなって犠牲の死を遂げるという、神の絶対愛を伝える使命を負っていたということなのです。これは、キリスト教神学の秘儀ともいえる部分です。
さて、この出来事から学ぶことは、二者の間でどんなに互いに意見が違っていても、自分も相手も神の御心を求めているならば、必ず合意でき、偉大なことが起こるという事です。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ18:19)とある通りです。
また、この洗礼のさいに天の門が開きました。未来の可能性が開けました。それが洗礼だというのです。逆に考えると、洗礼なしには、天の門が閉じていることになります。可能性も閉じていたら、行き詰まりというか、これ以上どこへも進んで行かれない状態です。何をしても無駄。あとは死ぬしかない。そんなどん底です。一つの例ですが、ある人は何億もの借金をかかえて、死のうと思ったそうです。しかし、どん底で、ふと気付いたそうです。たとえプールに満々とたまった水をお猪口でくみ出すようなことであっても、途中で止めない限りは、いつかきっと成し遂げられる。この気づきによって、その人は、借金を返しただけでなく、その後、事業に成功したそうです。その時のヒラメキ(英語では、インスピレーション、聖霊が入るという意味)、これが転機になったのです。それはターニングポイント(転換点)ともいえるでしょう。
今日の個所はイエス様の霊的なターニングポイントです。ですから、聖霊が鳩のような姿で降りてきました。イエス様の伝道人生の出発点で、大きな聖霊の注ぎがあったのです。言いかえれば、イエス様は聖霊にみたされた方でした。当時の社会で聖書に詳しい人はかなりいました。聖書学者もいました。でも、聖霊の点はどうでしょうか。同じことが現代でも言えます。日本のキリスト教の神学のレベルは高いものです。他方で、韓国の教会は聖霊を祈り求めてきました。わたしが学生だった50年前には日本と韓国の教会の規模にはそれほど差がありませんでした。しかし現在では、日本の教会員数は人口の0.5パーセント以下、韓国はその100倍の50パーセント以上です。数だけではないでしょう。聖書は、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」(ローマ8:2)が人を救うのだと教えています。霊の法則なしには救いは達成されません。日本の教会は、学問としての神学のレベルは高いのに、霊の法則には無関心な場合が多くみられます。しかし、これも人間の業ではなく、神は、「わたしの霊をすべての人に注ぐ」(使徒2:17)と約束してくださっていますので、日本が例外だとは限らないでしょう。「すべての人」と約束されているのです。また、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(第二コリント3:16)とあり、聖霊はわたしたちから遠くはないことを確信する必要があります。イエス様の周りに集まった、底辺の人々は、決して「正しい人々」ではなく、後悔するようなことばかりしてきた「罪人」でした。しかし、イエス様は、何も善い行いをしていない彼らに対して、「あなた方は、神の霊が宿る神殿であり、神の絶対愛を注がれている人々だ」、と教えたのです。
この聖霊の印は愛です。主イエスは、伝道に出発するにあたって、神の愛の言葉を聞きました。わたしたちもまた神の愛の言葉を聞くことができます。みなさんは「あなたはわたしの愛する子どもです」と言われたら、うれしいですか?「あなたは悪い子だ」といわれるより、「あなたは私の愛する子だ」と言われる方がずっとうれしいですね。わたしたちは罪の子ですから、神の前でごめんなさいと言おうと、怒られるのを覚悟してやってきます。ところが、実際に神様に会ってみると、わたしたちの天のお父さんである神様が、本当に、私たち一人一人のことが大好きなのだとわかるのです。
この神さまの愛を知ったら、もはや悪い事をしようとは思いません。それどころか、この愛を伝えたいと思いはじめます。それが伝道です。また、それが聖霊が下るという事です。それを最初に示して下さったのがイエス様でした。イエス様がわたしたちのような罪深く、弱く、貧しい人間と一緒の立場まで、身を低くして洗礼をお受けになったのは、神さまの愛が罪人と共にあることを示すためだったからです。イザヤ書に「彼は傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことがない」とあるのは、このことです。この方が、どんな、どんぞこ底にある罪人にも、本物の救いと本物の愛を与える方だからです。まさに救世主なのです。イエス様を救い主として、堅く信じましょう。必ず、わたしたちは本当に新しい人間として生まれ変わらせていただくことができます。新しく生まれ変わらせていただくのは、わたしたちは神に愛されるために生まれたのだと知り、まだこの世の条件的な愛しか知らない人々に絶対愛を伝えるためです。皆さんが、偶然にこのホームページにであったのも、本当は偶然ではなく、皆さんの望みや、皆さんの心の痛みを、神様がよく知っておられて、あたらしく生まれ変わって元気に生きることを望んでおられるからです。ここまで読んでくださってありがとう!!
人知ではとうてい計り知れない、神の平安があなたがたの心と思いを、イエス・キリストにあって守って下さるように。