第二次世界大戦の記録映画をユーチューブで見ていたら、ド・ゴール大統領の姿が映っていました。大勢の群集にかこまれて、長身の彼が皆を見下ろすような姿勢でゆっくりとシャンゼリゼを行進していく場面が印象的でした。ド・ゴール大統領はなかなか博識の人物であったようで、多くの著作を残しています。その彼の言葉も印象的でした。「人はなろうとした人物しかなれない。」「偉大なことは、偉大な人間がいなければ決して達成されない。そして人間は偉大になろうと決意して初めて偉大になれるのだ。」これをキリスト教神学で解釈すれば、人間の願いを神様が無視されることはない、ということでしょう。聖書にもそう書いてあります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(新共同訳聖書、ヘブライ人への手紙11章1節)「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに称賛された。」(口語訳聖書、ヘブル人への手紙11章1節)個人的には、口語訳聖書の言葉が好きです。ただ、原典のギリシア語ではどうなっているのでしょうか。聖書を読む人で、自分の好みに従って解釈する人がいますが、神学的にはあまり好ましいことではありません。なぜなら、聖書に聞くのではなく、自分の考えという色眼鏡をとおして誤訳してしまう可能性が高いからです。さて、それはそれとして、この文章の中のキーワードは「信仰」と「確信」です。これは、信仰とは何かと説明している珍しい箇所です。信仰のことを説明しているのですから、わたしたちは、その説明内容である、「望んでいる事柄の確信」に用いられているエレグコス(確信)という言葉に注目する必要があるでしょう。聖書のギリシア語の検索では定評のあるキッテル聖書ギリシア語辞典にはこう書いてありました。「このように信仰とは、まだ見ていない事柄にたいする神から与えられた説得であるので、望んでいる事柄への信任である。」(中川私訳)これは大変な訳になっています。何故なら、元来、エレグコスとは罪人に罪を自覚させる神様からの教育的配慮(説得)のことだからです。原罪によって、信仰を失い、絶望と失望の暗い谷間をさまよう人類に、希望を回復するのは信仰しかなく、その信仰すらも、神様の絶対愛に基づく教育的配慮の一環だということが語られています。端的に言えば、ド・ゴール大統領の言葉のように、「願いを持つこと」自体が、神様の教育的配慮をすでに受け取っている証拠なのです。そして、これは自己が主体ではなく神様が主体であるがゆえに、必ず実現されるものです。昔のNHKの番組「プロジェクトX」に登場した人々も、同じように、神様(隣人愛ともいえる)のうながし(説得)に後押しされて困難な課題を達成したのです。この原理は、これを読んでくださっている皆さんにも適用されるものであり、この記事を読んでくださっていること自体が、皆さんの自分の意志ではなく、神様においてまだ見ぬ自分をイメージして、「できない、無理だ、つらい、不可能だ」という風に罪によって洗脳されている自分自身から脱却するように後押しされているのです。勿論、これを書いているわたしも、原典のギリシア語に秘められた深い意味に大いに励まされています。それが神様からの説得です。「人はなろうとした人物しかなれない」