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感覚としての愛ではなく、動的な愛について語るパウロから愛の本質を学ぶ

フィリピの信徒への手紙1章8節11節  文責 中川俊介

8節でパウロは、フィリピ信徒に対する愛情を強調します。それもパウロ個人の愛情ではありません。原語には「イエス・キリストの内臓において」と書いてあります。これはどんな意味でしょうか。内臓とは、ユダヤ教の考え方では、人間の深い感情の宿る所ですから、これは切なる親愛の情をあらわすものです。少し横道にそれますが、ギリシア思想を脳内思考と定義するなら、ヘブライ思想は内臓思考と言えるかもしれません。それと比較した場合、わたしたち自身の思考形式はどのようなものでしょうか。脳でしょうか、内臓でしょうか。それにしても、この内臓思考は、あくまでパウロ個人のものではなく、イエス・キリストにおける愛情だと書かれている点が重要です。「パウロの心臓は、キリストの心臓にあわせて鼓動する。」[1] 教会として、キリストの体である一致の現実性が表現されているともいえるでしょう。「これは実質的にはキリスト自身の愛である。」[2] だから、フィリピ教会の特定の人を愛するのではなく、すべての人を愛するのです。それだけではありません。このキリストの愛をもって愛慕していることは、神が自分の証人だとパウロは述べています。「神を証人としてあげる述べ方は、あるいは奇異と見えるかもしれない。しかしこれは旧約、ユダヤ教に一般的な誓いの形であって、とくに深い意味はない。」[3] それにまた、神を証人として引用する方法は、論争に決着をつける叙述法でした(ヘブライ6:16)。その背景を考えると、パウロの愛に疑いを持っていた人々がいたということでしょう。しかし、それにしても、パウロとキリスト、パウロと神との距離は実に近いものだったとわかります。実は、それこそが、罪の贖いを受けているという証拠なのです。罪という、神とわたしたちを隔てる壁が取り除かれ、わたしたちが神の愛する子として神と共にある姿ではないでしょうか。

9節では、パウロの彼らに対する願いが書かれています。丁度、親が子どもに期待をかけるように、パウロは語ります。「フィリピ信徒のことをいつも祈りに覚えていると、パウロは、再び彼らに思い起こさせます。」[4] その神に捧げる願いとは、フィリピ信徒の愛が増えていくことです。「クリスチャンになったわれわれの中に、無制限に成長可能なものが存在する。それは愛である。」[5] 原文を見ますと、そこには、「さらに」、「もっとますます」、「もっとますます」と同じ意味の言葉が連なっています。パウロがこれほど願った溢れるほどの愛の増加とは、内容のないものではなく、フィリピ信徒の愛が真の知識と実践的な判断力において豊かになることでした。愛が溢れるほどに増加すれば、種々の問題は解決するとパウロは確信していたのです。

一方、わたしたちの愛は、いわば無我夢中であって、熱意はあっても、冷静ではない場合が多いものです。ところが、パウロがフィリピ信徒に求める愛とは、第一に知識に富んだ無条件の愛(アガペー)です。これはどんな意味でしょうか。単に愛するのではなく、良い事も悪いこともすべてを識別したうえで愛するという事です。「これはパウロが好んで用いる表現である。」[6] この点で、ユダヤ人の考える知識と、ギリシア人の知識とは違います。ギリシア人は対象から距離を保って観察した客観性を知識としました。ユダヤ人は、「与えられた状況の中で常に新しく問い直す」[7]ことを知識と考えました。だから、真の知識に基づく愛というのは静止的なものではなく、非常に動的なものです。第二に、この愛は感覚的に聡いという愛です。つまり、他者の心深くに秘められた悲しみや痛みなどをすばやく察知する愛です。知覚ともいえるでしょう。実際にパウロは、「あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(第一コリント8:11)、と語っています。これはまた、幼子を愛して育てる母親が、子供の微熱や、衰弱などの小さな異変にも気づくように、愛は温かい眼差しにあると考えてもいいでしょう。反対に、「私たちが盲目であると、その愛も小さく、貧しいままである。私たちは、何が他人に必要であり、益となるか、さっぱりわからない。」[8]

パウロはこうして、理性的な面でも、情緒的な面でもフィリピ教会の信徒たちの愛が成長するように祈りました。これは、わたしたちの信仰生活においても重要な事であって、日々の生活をどのように生きるべきかは、律法としては書かれてはいないのです。わたしたちに日々与えられる新しい状況の中で、真の知識と実践的な判断力において、隣人に対する愛を学んでいくのです。「クリスチャンは、この価値ある学びをなかなか学習することができないが、とにかくまずその人のために祈ることが最も効果的である。」[9] それは非常に動的な信仰姿勢だといえるでしょう。また、そのようにできたとしても、そこにはなんらわたしたち自身の功績があるわけではなく、純粋に神の恵みの賜物なのです。

10節で、パウロはさらに続けます。ここでパウロは、ドキモスという特殊な言葉を用います。これは、試験とかテストを意味する言葉です。また元来は、貨幣の真贋を見分ける時の用語だそうです。何故、このような言葉が用いられているのでしょうか。その背景としては、何かしらのニセモノとか誤りの教えが横行していたと考えられます。「ピリピ教会に道徳的な混乱があったことは、パウロの譴責から感じられる。」[10] ですから、パウロは「キリストの日」に、純真で責められることのない者となるようにと結んでいます。つまり、将来に目を向けているのです。「キリストの日」とは旧約聖書における「主の日」と同じ意味で、終末を示しています。「しかし、ここでのイメージは終末時の描写、すなわち苦しみ、善悪の闘争、宇宙的な混乱、復活、審判で飾られてはいない。」[11] ここで、パウロが思い描いているのは、破壊的な終末ではなく、キリストの再臨の時としての終末です。わたしたちの目標達成ではなく、キリストによる贖いの業の完成です。わたしたちは貧しい罪人として「キリストの日」を迎えるだけです。自分の功績は何一つありません。「それによって私たちの中に恐れと希望とが呼び起こされる。」[12] この場合の恐れとは、偉大な神の業に対する畏敬の念と解釈してよいのではないでしょうか。この時に向けて、信徒たちがさらに愛と判断力において成長するようにとパウロは祈っています(ローマ12:2参照)。それは、自我の高揚のためではなく、花婿を迎える僕たちの謙虚な義務です。そして、そのお迎えの準備とは、愛と判断力を身に着けることであって、パウロは彼らに善行とか慈善、伝道活動などを求めてはいません。もしかしたら、それは自明の事であって、パウロの信仰にあっては、まず愛と判断力があれば十分と考えたのだと思います。

11節には義の実で満たされると書かれています。「義の実という表現は旧約聖書からのものである。」[13] この表現には深い意味があると思います。最初の「義」という言葉ですが、これは、いわば罪(神から離れている的外れの状態)の反意語であり、神のご支配に任せて従順であるという神との正しい関係を示しています。アブラハムが義人であったというのはこの意味です。イエス様の場合には、イエス様が神ご自身であるので、義人という表現はあまりみられません。それにしても、義の実で満たされるということは旧約聖書における預言の成就であり、「良い行いの実を収穫することは、命と善の源であるイエス・キリストの実りなのである。」[14] これは、なんと喜ばしい光景でしょうか。

そして、それがイエス・キリストを通して、神の栄光と賛美に至りますように、とあります。栄光(ドクサ)という言葉は、讃美歌などにもよく見られますがどういう意味でしょうか。頌栄の事を英語でドクソロジーといいますが、これもドクサから派生した言葉です。ドクサとはユダヤ教において神殿内の至聖所にある輝き(シェキナー)を示す言葉です。神の啓示のリアリティーともいえるでしょう。ユダヤ人には畏敬の念を覚えざるを得ない用語です。パウロはそれを忘れることがありませんでした。ここにも、旧約から新約へと続く赤い糸のような神の働きが見られます。さて、もう一つの賛美とは何でしょうか。これは褒めたたえることです。この場合のエパイノスというギリシア語は「その誉は人からではなく、神から来るのです」(ローマ2:29)とあるように、名誉に近い言葉です。それは人間に神が付与する名誉です。ですから、最初の「イエス・キリストを通して、神の栄光と賛美に至りますように」というパウロの祈りの言葉は、イエス・キリストを通して、フィリピ教会の信徒に神の栄光が現わされ、神から彼らに誉が与えられますようにという意味です。それにしても、このことは人間の側の努力や功績によって成し遂げられることではありません。まさに、偉大な救い主イエス・キリストを通して成し遂げられる恵みの業の完成なのです。パウロは、それを願ってやみません。それは、イエス・キリストのとりなしだと言えるでしょう。わたしたちの人生もこれによって支えられているのです。

[1] マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、66頁

[2] ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、クラーク社、1897年、11頁

[3] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、30頁

[4] ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、25頁

[5] ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、68頁

[6] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、26頁

[7] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、35頁

[8] シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、7頁

[9] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、67頁

[10]前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、68頁

[11] クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、50頁

[12] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、8頁

[13] 前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、14頁

[14] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、29頁

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