今年度のマンガ大賞にノミネートされた11作品の一つに「タコピーの原罪」があります。悲しみ多い地上に降りて来たハッピー星人は、ある面ではハッピー聖人えあり、一種の救い主のモデルだと思いました。作者が伝えたかったことは、毒親をもつ子供たちが孤独から解放されてほしいということのようです。その解決法は、タコピーの持ってきたハッピー道具ではなく、「話をすることの大切さ」でした。子供たちを幸せにしようとして、ハッピー星の掟を破ってしまったタコピーは処罰されてしまいます。この掟を破る行為が原罪と考えられている一面もあります。しかし、それ以上に、ハッピー精神で固まっていたハッピー星人のタコピーは地球に来てから、善悪を知ってしまったというのも、聖書の教える原罪に近いものです。ただ、神学的に深堀してみると、原罪というのは、本来は神の所有である「善悪の判断」の実を人類の始祖が無断で食べ、自らが本当に善悪が判断できるものとなってしまったかのように思ったことが「原罪」なのです。過去の戦争でも、自分の側が正しいという「善悪の判断」が、罪を生み出しているのではないでしょうか。原罪のウクライナ戦争でも、日本やアメリカ、そしてドイツはウクライナを支援し、「善悪の判断」に基づいて、ロシアを経済封鎖しています。ただ、自分たちの国も過去には、ユダヤ人を虐殺し、原爆で非戦闘員を殺し、ベトナムを焦土化し、南京虐殺だけではない残虐行為を「善悪の判断」によって行ってきたことを忘れてしまっているかのようです。聖書の中では、タコピーに匹敵するのが、救い主イエス・キリストですが、カトリック教会の神学では、救い主は無原罪と考えられています。ただし、このタコピーの原罪を深く解釈するならば、救いがたい人類を救おうとして、イエス・キリストが神との約束をあえて破り、自己を犠牲として十字架上で死んだとも考えられます。もしそれが真実ならば、歴史的な贖罪論を超える教理ともなるでしょう。なぜなら、従来の贖罪論の根底にある、「神が我が子イエス・キリストを贖罪の犠牲としてささげた」という、アブラハムとその子イサクの故事の敷衍は、ユダヤ人学者のマルチン・ブーバーなどからは疑問視されているからです。従来のヨーロッパ神学にたいして、北森嘉蔵氏は「神の痛みの神学」を提唱して話題になったことがあります。しかし、主流になることはありませんでした。いま日本で、「タコピーの原罪」のように、漫画でありながら、優れた内容を持った作品が現れていることを考えると、若い神学者には、再度、原罪と贖罪の問題を探求していただきたいと思いました。それは、救いとは何かという重要点であり、それがなくては、伝道とは単なる人集めに成り下がってしまうからです。タコピーの原罪から「イエス・キリストの原罪」へのさらなる飛躍が求められているでしょう。簡単に一言でいえば、善人が善の実現のために犯さざるをえない罪、という事柄に関する痛みの神学のことです。